ロンドン海軍軍縮会議
【概説】
1930年(昭和5年)にイギリスの提唱でロンドンにて開催された、列強海軍の補助艦保有比率を制限するための国際会議。米・英・日・仏・伊の5カ国が参加して条約が締結されたが、日本国内では政府の調印権限を巡って「統帥権干犯問題」という深刻な政治問題を引き起こした。
ワシントン体制の補完と補助艦制限への道
1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約では、米・英・日・仏・伊の主力艦(戦艦・巡洋戦艦)の保有比率が定められたが、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦などの補助艦に関する制限は見送られていた。そのため、主力艦の建造を禁じられた各国は、条約の網の目を縫う形で補助艦の熾烈な建艦競争へと突入した。1927年にはアメリカの提唱で補助艦制限を目指すジュネーブ海軍軍縮会議が開かれたが、米英の対立により決裂に終わっていた。
しかし、1929年にウォール街での株価大暴落を端緒とする世界恐慌が発生すると、列強各国は深刻な財政難に直面し、莫大な費用を要する建艦競争の継続が極めて困難となった。こうした背景のもと、イギリスの労働党内閣(マクドナルド首相)の提唱により、1930年に再び5大国による海軍軍縮会議がロンドンで開催されることとなった。
会議の経過と日本の妥協
日本からは、立憲民政党の濱口雄幸内閣のもと、前首相の若槻礼次郎を首席全権、海軍大臣の財部彪らを全権として派遣した。当時の日本海軍(軍令部)は国防上の絶対条件として、「対米7割の補助艦総トン数」「大型巡洋艦の対米7割」「潜水艦の現状維持(約8万トン)」といういわゆる三大原則を強硬に主張していた。
しかし、アメリカをはじめとする他国の譲歩を引き出すことは難しく、交渉は難航した。最終的に日米間の妥協案(リード・松平協定)が成立し、補助艦全体の総トン数では対米6.975割(約7割)を確保したものの、日本が最も重視していた大型巡洋艦は対米6割強に抑えられ、潜水艦も日米英同量の5万2700トンへと大幅な削減を余儀なくされた。また、フランスとイタリアは自国の要求が通らず条約の主要部分への署名を拒否したため、実質的には米・英・日の3カ国による軍縮条約として成立した。
統帥権干犯問題の勃発と政党政治の危機
この条約案に対し、日本国内の海軍軍令部(部長:加藤寛治)や海軍内の強硬派(艦隊派)は、国防に重大な支障をきたすとして激しく反発した。しかし、緊縮財政と幣原喜重郎外相による協調外交を推進していた濱口内閣は、軍縮による財政負担の軽減を最優先とし、軍令部の反対を押し切って条約への調印を強行した。
これに対し、野党である立憲政友会(犬養毅、鳩山一郎ら)や右翼勢力、そして海軍内の反条約派は、「兵力量の決定は天皇の統帥権に属する事項であり、天皇を輔弼(補佐)する軍令部の同意なしに政府が独断で決定したのは、統帥権の干犯(侵食)である」として政府を猛烈に攻撃した。これが統帥権干犯問題である。
本来、大日本帝国憲法下における軍の編制権は内閣の輔弼事項であったが、政友会は倒閣運動のためにあえてこの問題を政治問題化した。結果として、枢密院の審査を経て条約の批准そのものは行われたものの、同年11月には右翼青年に濱口首相が狙撃されて重傷を負い(後に死去)、政党政治に対する国民の不信感と軍部の政治的発言力を急激に高める致命的な結果を招いた。
歴史的意義と軍縮体制の崩壊
ロンドン海軍軍縮会議の成立によって、ワシントン会議以来の海軍軍縮体制(ワシントン・ロンドン体制)は一応の完成を見せ、列強間の協調と平和維持が図られた。しかし、国内的には軍部が「統帥権」という盾を悪用して政治に介入する悪しき前例を作ってしまい、日本の政党政治が自壊していく決定的な転換点となった。
その後、満州事変(1931年)を経て国際的な孤立を深めた日本は、1934年にワシントン海軍軍縮条約の廃棄を通告し、翌1935年末に開かれた第二次ロンドン海軍軍縮会議からは「対等比率」が認められなかったことを理由に脱退した。これにより1936年以降は「無条約時代」へと突入し、日本は再び際限のない建艦競争と太平洋戦争への道を突き進んでいくこととなる。