外蒙古 (がいもうこ)
【概説】
現在のモンゴル国に相当する、ゴビ砂漠以北のモンゴル高原地域。清代の統治区分に由来する呼称であり、近代日本史においては、ソ連の勢力圏として満州国と国境を接し、極東防衛・対ソ戦略における軍事的緊張の最前線となった地域である。
清朝の支配からモンゴル人民共和国の成立へ
歴史的にモンゴル高原は、ゴビ砂漠を境に南部の「内蒙古(内モンゴル)」と北部の「外蒙古(外モンゴル)」に大別される。清朝の支配下において、早くから服属し直轄地化された内蒙古に対し、外蒙古は比較的自立性を保った藩部として扱われていた。しかし、20世紀初頭に清朝が崩壊へと向かう過程で、外蒙古の遊牧社会は独立の模索を始める。
1911年の辛亥革命を機に、外蒙古はチベット仏教の活仏であるジェプツンダンバ・ホトクト8世を戴いて独立を宣言した。その後、ロシア革命の影響を受けて社会主義化が進み、1924年にはソ連の後援のもと、世界で2番目の社会主義国家であるモンゴル人民共和国が成立した。これにより外蒙古は、実質的にソ連の衛星国としての道を歩むこととなった。
満州事変と日ソ・日蒙の対立
1931年の満州事変および翌1932年の満州国建国は、東アジアの勢力図を激変させた。日本(関東軍)の実質的な支配下に入った満州国と、ソ連の影響下にある外蒙古が、長大な国境線を挟んで直接対峙することになったためである。
当時の満州国と外蒙古の国境は、ハルハ河東方の草原地帯において境界が極めて曖昧であり、双方の主張する国境線が異なっていた。日本にとっては、外蒙古はソ連による赤化の防波堤であり、同時にシベリア鉄道を遮断し得る戦略的要衝であったため、関東軍は国境警備を強化し、地域的な衝突が頻発するようになった。
ノモンハン事件と日本外交への影響
1939年5月、満州国軍と外蒙古軍の小規模な衝突を契機に、日ソ両軍が本格的に介入するノモンハン事件(ハルハ河戦争)が勃発した。日本陸軍(関東軍)は外蒙古をソ連の一部とみなして攻撃を加えたが、ゲオルギー・ジューコフ将軍率いるソ連・モンゴル連合軍の圧倒的な戦車部隊・航空戦力による近代的な包囲殲滅戦の前に、大打撃を被ることとなった。
同年9月に停戦協定が結ばれたが、この敗北は日本の防衛・外交戦略に決定的な影響を与えた。陸軍が主導してきた北進論(対ソ戦重視)は後退を余儀なくされ、日本は資源を求めて東南アジアへと向かう南進論へと傾斜していく。結果として、1941年の日ソ中立条約締結の伏線となり、太平洋戦争突入への歴史的転換点となった。