菊池武夫 (きくちたけお)
1875年〜1955年
【概説】
大正から昭和期にかけて活躍した陸軍軍人、貴族院議員。1935年の貴族院本会議において、憲法学者・美濃部達吉の「天皇機関説」を「緩慢なる謀叛」と激しく糾弾し、日本が軍国主義へと急速に傾斜する契機となった天皇機関説排撃運動の火付け役となった人物である。
天皇機関説に対する貴族院での糾弾
1935年(昭和10年)2月19日、貴族院本会議において、陸軍中将から貴族院議員に転じていた菊池武夫は、政務演説の席上で憲法学者・美濃部達吉(貴族院勅選議員)を名指しで批判した。菊池は、当時大日本帝国憲法解釈の通説であった美濃部の天皇機関説を、天皇の神聖性を冒涜し統治権を否定する「国体に対する緩慢なる謀叛」であり、美濃部自身は「学匪」「学賊」であると過激な言葉で糾弾した。
美濃部はこれに対し、同年2月25日に「一身上の弁明」と題する理路整然とした反論演説を行ったが、菊池や同調する軍部・右翼勢力はこれを一切受け入れず、攻撃の火の手はさらに拡大していくこととなった。
軍国主義の台頭と国体明徴運動への影響
菊池の演説は、単なる一議員の学説批判にとどまらず、政局を揺るがす一大政治闘争へと発展した。野党の立憲政友会は岡田啓介内閣を揺さぶるための政争の道具としてこれを利用し、在郷軍人会や右翼団体なども同調して大規模な「天皇機関説排撃運動」を展開した。
この結果、岡田内閣は圧力に屈し、天皇が統治権の主体であることを強調する国体明徴声明を相次いで発表せざるを得なくなった。美濃部の著書は発禁処分となり、美濃部自身も貴族院議員を辞職に追い込まれた。菊池の排撃発言を発端とするこの一連の事件は、大正デモクラシー期に培われた自由主義的な学問・言論の自由を窒息させ、日本が国家総動員体制や太平洋戦争へと突き進む精神的基盤を作ることとなった。