国体明徴声明 (こくたいめいちょうせいめい)
【概説】
1935年(昭和10年)、天皇機関説問題の沈静化を図るため、岡田啓介内閣が「統治権の主体は天皇にある」と公式に発表した政府声明。軍部や右翼の圧力に屈する形で二度にわたって発出され、近代立憲主義的な憲法解釈を政府が自ら否定した。これにより学問・思想の自由は圧殺され、日本が軍部ファシズム体制へと傾斜していく決定的な転換点となった。
天皇機関説事件の勃発と政治問題化
大正デモクラシー期を通じて、憲法学者の美濃部達吉が提唱した「天皇機関説」は、国家をひとつの法人とみなし、天皇はその最高機関として憲法に従って統治権を行使するという学説であった。これは当時の憲法学における通説であり、官僚や政治家にも広く受け入れられ、国家運営の理論的支柱となっていた。
しかし、1935年(昭和10年)2月、貴族院において菊池武夫男爵がこの学説を「反国体的」であるとして激しく非難したことから事態は急転する。満州事変以降、台頭を著しくしていた軍部や右翼陣営は、天皇機関説を天皇の絶対性を貶める不敬な思想として激しい排撃運動を展開した。さらに、当時野党であった立憲政友会も、岡田啓介内閣を打倒するための絶好の政争の具としてこの問題を利用した。その結果、単なる学術的な論争は瞬く間に全国規模の重大な政治問題へと発展していった。
岡田内閣の対応と二度の声明発出
岡田内閣は当初、美濃部の学説を擁護し、事態の自然鎮火を図ろうとしていた。しかし、軍部や右翼の圧力は強まる一方であり、在郷軍人会なども巻き込んだ全国的な「国体明徴運動」へと拡大した。内閣存亡の危機に立たされた岡田首相は、軍部との妥協を余儀なくされる。
1935年8月3日、政府は「大日本帝国の統治権の主体は天皇に存する」とする第一次国体明徴声明を発表し、天皇機関説を公式に否定した。しかし、軍部や右翼は声明の表現が依然として曖昧であると反発し、内閣への攻撃を緩めなかった。これを受けた政府は同年10月15日、さらに強い調子で機関説を「国体の本義に悖る(もとる)」と断定し、その根絶を誓約する第二次国体明徴声明を発出するに至った。この一連の動きの中で、美濃部達吉は貴族院議員の辞職に追い込まれ、その著書も発禁処分となった。
声明の歴史的意義とファシズムへの道程
国体明徴声明が日本の近代史にもたらした影響は極めて大きい。第一に、明治憲法下で培われてきた立憲主義的・自由主義的な憲法解釈が、政府によって公式に圧殺されたことである。これにより、天皇の権力を憲法によって制限するという近代立憲国家としての原則は実質的に放棄され、学問の自由や言論の自由に対する重大な弾圧が公然と行われるようになった。
第二に、この声明を契機として「国体」という概念が絶対視され、国民の精神的統制が強化された点である。文部省は1937年(昭和12年)に『国体の本義』を刊行し、天皇を中心とする家族国家観や滅私奉公の精神を国民や教育現場に徹底させていった。
第三に、軍部の政治的発言力が決定的に強化されたことである。統治権の主体が天皇個人にあるという「天皇主権説」の公認は、天皇に直属する軍部(統帥権)の優位性を裏付ける論理として利用された。この国体明徴運動を通じて勢いづいた急進派青年将校らは、天皇親政を実現すべく、翌1936年(昭和11年)に二・二六事件を引き起こすこととなる。国体明徴声明は、単なる一つの政治的妥協にとどまらず、日本が軍部ファシズムと破滅的な戦争へと突き進むための思想的土壌を完成させた決定的な出来事であったと言える。