永田鉄山

統制派の事実上の中心人物であったが、1935年に陸軍省軍務局長室で皇道派の将校に斬殺された人物は誰か?
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重要度
★★

【参考リンク】
永田鉄山(Wikipedia)

永田鉄山 (ながたてつざん)

1884年〜1935年

【概説】
昭和初期に活躍した陸軍軍人。陸軍内の官僚統制と国家総力戦体制の構築を重視する「統制派」の中心人物。陸軍省軍務局長時代、対立する「皇道派」の相沢三郎中佐によって暗殺され、この事件が二・二六事件の重要な伏線となった。

総力戦思想の先駆者と「統制派」の形成

永田鉄山は、第一次世界大戦の視察経験から、近代戦争の本質が国家の総力を挙げて行われる「総力戦」へと変化したことを見抜いていた。彼は、日本が将来の国際紛争を勝ち抜くためには、高度な国防国家の建設と、政治・経済・社会のすべてを統制・動員できる国家総動員体制の確立が不可欠であると確信した。

この思想を実現するため、永田は陸軍の近代化と官僚的な制度改革を重視し、軍内部の改革運動を主導した。これが後に、計画的な国家統制を合法的に進めようとする「統制派」の形成へとつながる。永田はその卓越した企画力と明晰な頭脳から、統制派の事実上の首領として軍内外に強い影響力を持つようになった。

皇道派との激しい対立と「相沢事件」

これに対し、精神主義や天皇親政(昭和維新)を掲げ、急進的な国家改造を主張する荒木貞夫や真崎甚三郎らの「皇道派」は、永田ら統制派と激しく対立した。皇道派の青年将校らは、既得権益層(財閥や重臣)と協調しながら合法的な改革を進めようとする永田らを「君側の奸(くんそくのかん)」として敵視し、テロリズムによる現状打破を模索するようになった。

対立が最高潮に達した1935(昭和10)年、統制派の主導によって皇道派の中心人物であった教育総監の真崎甚三郎が更遷された。この人事を裏で画策したのが永田であると信じ込んだ皇道派の相沢三郎陸軍中佐は、同年8月12日、陸軍省の軍務局長室に乱入して永田を斬殺した。この事件は「相沢事件」と呼ばれ、白昼堂々、陸軍の中枢で現役の局長が暗殺されるという前代未聞の事態に、社会は大きな衝撃を受けた。

永田の死がもたらした歴史的影響

永田鉄山の横死は、陸軍内の統制力を著しく低下させ、軍紀の崩壊を露呈させる結果となった。また、この事件の公判を通じて皇道派の思想や行動が過激化し、翌1936年の二・二六事件(皇道派青年将校によるクーデター未遂事件)を誘発する直接的な引き金となった。

二・二六事件の発生とその鎮圧後、皇道派が軍中枢から一掃されたことで、結果的に永田の属した統制派が陸軍の実権を完全に掌握することとなった。皮肉にも、永田の死とそれに続く大混乱を経て、彼が悲願とした軍部主導による「国家総動員体制」の構築(のちの国家総動員法の制定など)は、昭和10年代後半にかけて急速に現実化していくこととなる。

永田鉄山と昭和陸軍 (祥伝社新書)

昭和陸軍の頭脳として軍政の中枢を担った永田鉄山の生涯と、その権力闘争の軌跡を克明に描き出した評伝。

永田鉄山軍事戦略論集 (講談社選書メチエ 658)

総力戦思想の先駆者による軍事論文を精選し、現代にも通ずる国家戦略の重要性を紐解く必読の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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