統制派
【概説】
昭和時代前期の日本陸軍内において形成された、幕僚・中堅将校を中心とする派閥。急進的なクーデターを排して軍の統制維持を重視し、合法的な手法による国家総動員体制の構築を目指した。二・二六事件後に陸軍内の覇権を握り、軍部主導の政治体制と戦争遂行への道を決定づけた。
総力戦への危機感と統制派の形成
統制派の思想的源流は、第一次世界大戦におけるヨーロッパの悲惨な消耗戦を目の当たりにした陸軍エリートたちの危機感にある。彼らは、将来の戦争が国家の全資源を動員する総力戦になることを痛感し、単なる軍備の拡充にとどまらず、政治・経済・社会のすべてを戦争に直結させる「高度国防国家(国家総動員体制)」の構築が必要不可欠であると考えた。
この派閥の中心となったのは、永田鉄山、東条英機、武藤章といった陸軍省や参謀本部の中堅幕僚たちであった。彼らは、1920年代に結成された「一夕会(いっせきかい)」などを母体とし、軍部が主導権を握りながらも、官僚や財界と連携して「上からの合法的な国家改造」を行うべきだと主張した。
皇道派との激しい路線対立
1930年代に入り、昭和恐慌や農村の疲弊を背景に国家改造の機運が高まると、陸軍内部で激しい派閥抗争が表面化した。統制派と対立したのが、荒木貞夫や真崎甚三郎を頭目とし、青年将校からの支持を集めた皇道派である。
皇道派は、日本精神(精神主義)を極端に重んじ、政党政治家や財閥を「君側の奸」として排除し、天皇親政を実現するためには武力によるクーデター(直接行動)も辞さないという急進的な思想を持っていた。これに対し統制派は、青年将校の直接行動は軍の規律を破壊する「下剋上」であるとして強く批判した。近代的な軍備の機械化や統制経済を重視する統制派にとって、精神論に傾倒し、無秩序なテロルを容認する皇道派の振る舞いは、総力戦体制構築の最大の障害と映ったのである。
永田鉄山暗殺と二・二六事件
両派の対立は、やがて血みどろの抗争へと発展する。皇道派の荒木貞夫が陸軍大臣を辞任したのち、統制派は軍中枢から皇道派の排除を図り、皇道派が神格化していた真崎甚三郎教育総監を更迭した。これに激怒した皇道派の相沢三郎中佐は、1935(昭和10)年、統制派の頭目であった軍務局長の永田鉄山を陸軍省内で斬殺した(相沢事件)。
そして翌1936(昭和11)年、皇道派の青年将校たちは武力クーデターである二・二六事件を引き起こす。しかし、昭和天皇の激しい怒りを買ったことで彼らは「反乱軍」として鎮圧された。この事件を機に、統制派は軍の統制回復を名目として皇道派の将官や同情的な将校を徹底的に粛清し、陸軍内部の主導権を完全に掌握することに成功した。
国家総動員体制の推進と歴史的意義
実権を握った統制派は、事件直後に成立した広田弘毅内閣に対して圧力をかけ、軍部大臣現役武官制を復活させた。これにより、陸軍は意に沿わない内閣をいつでも倒閣・組閣阻止できる合法的な権力(生殺与奪の権)を手に入れ、政治への介入を決定的なものとした。
1937(昭和12)年に日中戦争が勃発すると、統制派の悲願であった総力戦体制の構築は一気に加速する。企画院の設置や国家総動員法(1938年)の制定を通じて、国民生活や経済活動は完全に国家の統制下に置かれた。やがて統制派の代表格であった東条英機が首相の座に就き、日本は太平洋戦争へと突入していく。統制派の軌跡は、「合法的な国家改造」という名目の下で軍部の独走を制度化し、近代日本を破滅的な総力戦へと導いたプロセスそのものであったと言える。