真崎甚三郎 (まさきじんざぶろう)
【概説】
昭和初期の日本陸軍において、荒木貞夫とともに「皇道派」の首領として仰がれた陸軍大将。陸軍内部の激しい派閥抗争の中で教育総監を更迭され、これが相沢事件や二・二六事件を引き起こす決定的な契機となった軍人である。
皇道派の指導者としての台頭と統制派との抗争
佐賀県出身の真崎甚三郎は、陸軍士官学校および陸軍大学校を優秀な成績で卒業後、軍内でのキャリアを順調に重ねた。1930年代に入ると、国家改造を目指す過激な青年将校たちから精神的指導者として仰がれるようになる。当時、陸軍内は天皇親政による急進的な国家革新とソ連への武力行使(北進論)を主張する「皇道派」と、高度国防国家の建設に向けて軍の統制と対中国進出を重視する「統制派」に分裂し、激しい主導権争いを展開していた。真崎は、同じ九州出身の荒木貞夫(陸相)とともに皇道派の双璧として、軍内に強い影響力を誇った。
教育総監更迭と相沢事件への引き金
1934年、真崎は陸軍の教育部門を統括する要職である教育総監に就任した。しかし、荒木の陸相辞任に伴い陸軍省内では統制派の勢力が伸長し、皇道派の排除が進められた。1935年7月、統制派の主導する陸相林銑十郎や軍務局長永田鉄山らによって、真崎は教育総監を事実上罷免(更迭)されることとなった。この「真崎更迭」は皇道派青年将校たちを激怒させ、統制派に対するテロの呼び水となった。同年8月、皇道派の相沢三郎中佐が陸軍省に乱入し、統制派の中心人物であった永田鉄山を白昼堂々刺殺する「相沢事件」が勃発。陸軍内の対立は極限に達した。
二・二六事件への関与と失脚
相沢事件による不穏な空気の中、1936年2月26日に皇道派の青年将校らによる未曾有の軍事クーデター「二・二六事件」が勃発した。決起した青年将校たちは、信頼する真崎を首班とする軍部内閣の樹立を期待していた。真崎自身も事件直後、反乱部隊に対して「諸子の行動は国体顕現の至情に基づくものと認む」とする陸軍大臣告示の作成に関与するなど、融和的な態度を見せて事態の収拾を図った。しかし、昭和天皇の強い怒りによって反乱部隊が「叛乱軍」と規定されると事態は一転し、クーデターは鎮圧された。真崎は反乱を容認・加担した容疑で逮捕され、軍法会議にかけられた。結果的には無罪となったものの、大将を免ぜられて予備役に編入され、陸軍内での政治的影響力を完全に失った。第二次世界大戦後の1945年、A級戦犯容疑で逮捕されたが、のちに不起訴処分となり釈放された。