ナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党)
【概説】
アドルフ・ヒトラーが率い、反ユダヤ主義やヴェルサイユ体制打破を掲げてドイツを独裁支配した全体主義政党。1933年に政権を掌握して一党独裁体制を築き、強引な対外膨張政策によって第二次世界大戦を引き起こした。同時代の日本の政治や思想にも多大な影響を与え、日独伊三国同盟を結んで共に枢軸国陣営を形成した。
結党から大衆政党への飛躍
第一次世界大戦の敗戦後、莫大な賠償金と領土割譲を課されたドイツ(ヴァイマル共和国)では、経済的困窮と政治的混乱が続いていた。1919年、ミュンヘンで結成された極右小政党「ドイツ労働者党」にアドルフ・ヒトラーが入党し、翌1920年に国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、通称ナチ党)と改称された。ヒトラーは持ち前の演説の才能を発揮して党首に就任し、強烈な反ユダヤ主義、反共産主義、そしてヴェルサイユ条約の打破を綱領に掲げた。
1923年のミュンヘン一揆(武装蜂起)に失敗して投獄されたヒトラーは、合法的な選挙を通じて政権を獲得する路線へと転換した。1929年に発生した世界恐慌によってドイツ経済が再び崩壊的打撃を受けると、既存の民主主義政党に失望した大衆や、共産主義の台頭を恐れる資本家・軍部の中間層がナチ党を熱狂的に支持するようになった。その結果、ナチ党は急速に議席を伸ばし、1932年には国会の第一党へと躍進を遂げた。
全権委任法と一党独裁の確立
1933年1月、ヒトラーは時のヒンデンブルク大統領によって首相に任命された。同年2月の国会議事堂放火事件を共産党の陰謀として弾圧の口実に利用し、3月には政府に立法権を白紙委任する全権委任法を成立させた。これによりヴァイマル憲法は実質的に機能停止となり、議会制民主主義は崩壊した。
その後、ナチ党以外の政党を非合法化して一党独裁体制を敷くとともに、労働組合を解散させて党傘下の組織(労働戦線)に組み込んだ。さらに、秘密国家警察(ゲシュタポ)や親衛隊(SS)による恐怖政治を展開し、反体制派やユダヤ人を強制収容所へと送った。教育や文化の面でも、ヒトラーユーゲントを通じた青少年の思想統制を徹底し、国家と社会の隅々までを党が指導する全体主義(ファシズム)体制を完成させた。
膨張主義と第二次世界大戦の勃発
国内の権力を掌握したナチ党政権は、外交面でも強硬な現状打破政策(生存圏の拡大)に乗り出した。1933年の国際連盟脱退に始まり、1935年にはヴェルサイユ条約を破棄して再軍備を宣言し、1936年にはラインラントの非武装地帯へ軍を進駐させた。イギリスやフランスが戦争を恐れて宥和政策をとる中、1938年にはオーストリアを併合し、さらにチェコスロバキアのズデーテン地方を割譲させた。
1939年8月に独ソ不可侵条約を電撃的に結び世界を驚愕させると、同年9月1日、ドイツ軍はポーランドへ侵攻した。これに対して英仏が宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発した。開戦後、ナチスはヨーロッパの大半を占領下に置いたが、その陰でユダヤ人などを絶滅収容所へ送り込み、数百万人の命を奪うホロコーストという人類史に残る狂気的な大虐殺を組織的に実行した。
昭和期の日本史における影響と日独関係
同時代の日本史(昭和戦前期)において、ナチ党の存在とその政治手法は極めて重要な意味を持っていた。日本も世界恐慌による昭和恐慌や満州事変以降の国際的孤立(1933年の国際連盟脱退)に直面しており、状況を打開するためのモデルとして、急速に経済を立て直し国威を発揚させているナチス・ドイツへの共感が軍部や革新官僚を中心に広がっていった。
外交面では、国際的な孤立を深める日独両国が接近し、1936年に日独防共協定を締結。1940年にはイタリアを交えた日独伊三国同盟へと発展し、世界の運命を二分する枢軸国陣営の中核を形成した。
また内政面でも、ナチ党の「一国一党」体制や統制経済は、日本の近衛文麿らが推進した新体制運動(大政翼賛会の結成)に多大な影響を与えた。日本はナチスのように完全に一つの政党が独裁する仕組み(ファシズム)とは異なり、天皇を中心とする国体に基づいた独自の総力戦体制を構築したが、国民を思想的に動員し、国家権力によって社会の全領域を統制しようとする手法においては、ナチ党の手法から多くを模倣していたのである。1945年5月にドイツが無条件降伏しナチ党が崩壊したことは、日本の敗戦が不可避であることを決定づける歴史的帰結であった。