西安事件 (せいあんじけん)
【概説】
1936(昭和11)年12月、陝西省の西安において、張学良らが国民政府軍事委員長の蒋介石を監禁した事件。内戦の停止と抗日統一戦線の結成を迫り、その後の第二次国共合作と日中全面戦争への決定的な転換点となった。
満州喪失と「安内攘外」政策への反発
1931年の満州事変により、日本軍に本拠地を奪われた張学良とその配下の東北軍は、関内へ撤退したのち陝西省の西安周辺に駐留し、中国共産党軍(紅軍)の討伐を命じられていた。当時の国民政府トップである蒋介石は、「安内攘外」(外敵である日本に対抗する前に、まずは国内の共産党を平定する)という方針を固守していた。
しかし、日本の関東軍による華北分離工作が露骨に進展し、中国の国家危機が深まるなか、故郷の奪還を願う張学良ら東北軍将兵の間では、同胞同士で血を流す内戦への不満と、抗日機運が急速に高まっていった。折しも中国共産党は「八・一宣言」(1935年)を発して内戦停止と抗日統一戦線の結成を呼びかけており、張学良は共産党側と密かに接触し、事実上の停戦状態に入っていた。
張学良による蒋介石監禁と周恩来の調停
1936年12月、共産党討伐(剿共)の督戦のために西安を訪れた蒋介石に対し、張学良および同調した西北軍の楊虎城の部隊は、武力を用いて蒋介石を宿舎で拘束・監禁するという実力行使に出た(12月12日)。張学良らは全国に向けて、内戦停止や救国会議の開催など8項目の要求を発表した。
この前代未聞の事態に対し、国民政府内部では親日派による張学良討伐の強硬論も浮上し、中国国内は一触即発の危機に陥った。ここで動いたのが中国共産党である。張学良の要請を受けて延安から周恩来らが西安に赴き、蒋介石との会談に臨んだ。共産党側はソ連の意向も踏まえ、蒋介石の処刑ではなく、抗日を条件とした平和的解決による事態の収拾を図った。結果として、蒋介石は口頭で内戦停止と抗日への方針転換を承諾し、12月25日に釈放されて南京へ帰還した。
抗日統一戦線の結成と日中戦争への影響
西安事件は、それまで血みどろの抗争を繰り広げてきた国民党と共産党が歩み寄る決定的な契機となった。事件後、国民政府による共産党討伐は事実上停止され、両党間で抗日統一戦線結成に向けた交渉が本格化した。この中国国内の劇的な情勢変化は、日本の対中政策の根底を揺るがすものであった。
日本軍部や政府は、中国側の抗日ナショナリズムのうねりを過小評価しており、これまで通りの分断工作が通用すると踏んでいた。しかし、翌1937(昭和12)年7月に盧溝橋事件が勃発すると、蒋介石は即座に徹底抗戦を決意する。同年9月には第二次国共合作が正式に成立し、日本は強固な民族統一戦線と直面することとなり、泥沼の日中戦争へと引きずり込まれていくこととなった。西安事件は、中国現代史の転換点であると同時に、昭和期の日本の軍事戦略と大陸政策が行き詰まる決定的なターニングポイントとして、日本近代史においても極めて重要な意味を持っている。