日産コンツェルン

鮎川義介が創設し、公開持株会社の形式をとって日立製作所などを傘下に収め、重化学工業を中心に発展した新興財閥は何か?
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重要度
★★

日産コンツェルン

1928年〜1945年

【概説】
鮎川義介(あゆかわよしすけ)が創設し、日立製作所や日産自動車などの重化学工業を中心に急速な発展を遂げた新興財閥。三井・三菱などの既成財閥とは対照的に、株式公開による資金調達(大衆資本の導入)を特徴とする。昭和戦前期における日本の大陸進出に深く関わり、満州への移転を通じて国家の戦時統制経済と一体化した。

日産コンツェルンの誕生と「新興財閥」の特質

日産コンツェルンの歴史は、鮎川義介が1928年(昭和3年)に、義兄の久原房之助から経営破綻寸前の久原鉱業を引き継ぎ、持株会社である日本産業(日産)へと改組したことに始まる。鮎川は同社を中核として、日立製作所、日本鉱業(現・ENEOS)、戸畑鋳物(後の日産化学)などを傘下に収め、急速にグループを拡大させた。

日産コンツェルン最大の特徴は、三井・三菱・住友などの既成財閥が「同族支配」と「閉鎖的な資金調達」に依拠していたのに対し、持株会社の株式を一般に公開する「公開持株会社」の形態をとった点にある。広く一般から資金を集める「大衆資本」の導入により、日産は巨額の資金を必要とする自動車や化学、金属などの重化学工業部門への投資を可能にした。こうした近代的な資本経営を行う新興の企業集団は、日窒(日本窒素肥料)や日曹(日本曹達)などとともに新興コンツェルン(新興財閥)と呼ばれ、昭和戦前期の産業界をリードした。

満州進出と「満州重工業開発(満重)」の設立

1931年の満州事変以後、日本の大陸進出が本格化すると、日産コンツェルンは大きな転換期を迎える。軍部(特に関東軍)は満州(中国東北部)の産業開発を急速に進めようとしたが、既成財閥は満州投資に消極的であった。これに対し、鮎川義介は満州への進出を決定する。日本国内における二重課税を回避したい日産側と、重化学工業の基盤を早急に構築したい軍部、そして満州国政府の利害が一致した結果であった。

1937年、日本産業は本社を満州国の首都・新京に移転し、満州国政府との折半出資による国策会社満州重工業開発株式会社(満重)へと改組された。これにより、日産は満州国内の鉱業、製鉄、自動車、航空機など主要な重工業を一手に掌握・統制することとなり、満州の経済・産業統制の核心を担う超巨大コングロマリットへと変貌を遂げた。

戦時体制下の行き詰まりと戦後の再出発

日産コンツェルンは国策と緊密に融合することで未曾有の規模に拡大したが、その運命は日本の国策そのものと連動していた。日中戦争が泥沼化し、太平洋戦争へと突入する過程で、アメリカからの技術・資本導入が不可能となり、激しい資材不足や労働力不足から満州での事業は行き詰まりを見せ始める。創設者の鮎川も満州の工業化構想をめぐって軍部と対立し、1942年に満重の総裁を辞任した。

1945年(昭和20年)の敗戦により、満州の資産はすべて没収され、日産コンツェルンは致命的な打撃を受けた。さらに、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による財閥解体の対象となり、持株会社である日本産業は解散を余儀なくされた。しかし、解体されたグループ各社(日産自動車、日立製作所、日本鉱業など)は、戦後それぞれ独立した企業として再出発し、高度経済成長期の日本経済を支える主要メーカーとして重要な役割を果たし続けた。

鮎川義介《日産コンツェルンを作った男》

日本の工業化を牽引した鮎川義介の生涯を通じ、日本経済の黎明期からコンツェルン形成のダイナミズムを辿る野心的な評伝。

日本経済史 — 近世から現代まで ()

近世の発展から現代に至るまでの経済構造の変化を俯瞰し、激動の歴史を背景に日本の歩みを深く理解するための基礎的な書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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