鮎川義介 (あゆかわよしすけ)
【概説】
日産コンツェルン(日本産業)を創立し、戦前・戦中期に急速な成長を遂げた「新興財閥」を牽引した昭和期の実業家。のちに関東軍の要請を受けて満州国に渡り、満州重工業開発株式会社(満重)の総裁として同地の重化学工業化を指揮した、昭和の日本経済および大陸進出における最重要人物の一人。
日産コンツェルンの形成と「新興財閥」の台頭
鮎川義介は、義兄である久原房之助が経営していた久原鉱業を1928年(昭和3年)に引き継ぎ、持株会社である日本産業(日産)へと改組した。鮎川が率いた日産は、三井や三菱といった特定の同族資本による閉鎖的な「既成財閥」とは異なり、一般の投資家から広く資本を募る株式公開型の持株会社方式(オープン・コンツェルン)を採用した点が画期的であった。
日産は、日立製作所や日本鉱業(現・ENEOS)、日産自動車などを次々と傘下に収め、重化学工業を中核とする巨大な新興財閥の筆頭格へと急成長を遂げた。この新興財閥の台頭は、第一次世界大戦後の日本の産業構造が、軽工業から軍需とも深く結びつく重化学工業へと転換していく歴史的トレンドを体現するものであった。
満州進出と「満州重工業開発」における国策への協力
1930年代、満州事変を経て満州国が成立すると、同地の治安維持と防衛、および開発を急ぐ関東軍は、資本と技術を持つ有力な日本企業の進出を求めた。しかし、既成財閥の進出を警戒していた関東軍にとって、特定の家系に縛られず柔軟に動く新興財閥である日産は最適のパートナーであった。鮎川自身も、満州の豊富な資源を利用してさらなる事業拡大を目論み、この要請に応じた。
1937年(昭和12年)、鮎川は日本産業の本社を満州国へと移転させ、満州国政府との折半出資による国策会社満州重工業開発株式会社(満重)を設立してその総裁に就任した。満重は、満州国内の鉱業や鉄鋼、自動車、航空機などの重化学工業を一元的に支配する巨大な国策トラストとなった。この時期の鮎川は、東条英機(関東軍参謀長)、星野直樹(満州国国務院総務長官)、岸信介(満州国産業部次官)、松岡洋右(満鉄総裁)らとともに、満州国の実権を握った「2キ3スケ」の一角として、国策と軍部の植民地支配・戦争遂行を経済面から深く支えることとなった。
戦後の訴追と戦後日本経済への遺産
太平洋戦争の敗戦後、鮎川は満州における軍国主義への加担および戦時経済の主導的役割を問われ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によってA級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨プリズンに拘留された。しかし、1947年(昭和22年)に不起訴処分となり釈放された。
公職追放の解除後は、日本の戦後復興において中小企業の近代化が不可欠であると考え、日本中小企業政治連盟を組織して政界に進出し、参議院議員としても活動した。鮎川が戦前に確立した自動車産業や電気機械産業の基盤は、戦後の高度経済成長期において日本を世界的な工業国へと押し上げる原動力となり、現代の日本産業の骨格形成に決定的な影響を与え続けた。