第1次近衛文麿内閣

1937年に成立し、盧溝橋事件に対して「北支派兵声明」を出し、日中戦争を全面化させた内閣は誰の内閣か?
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★★★

第1次近衛文麿内閣 (だいいちじこのえふみまろないかく)

1937年〜1939年

【概説】
1937(昭和12)年6月から1939(昭和14)年1月まで存続した、五摂家筆頭の近衛文麿を首相とする内閣。盧溝橋事件を契機に日中戦争(支那事変)へと突入し、国家総動員法の制定などを通じて日本の戦時体制を構築した。

挙国一致の期待と組閣の背景

1936(昭和11)年の二・二六事件以降、日本の政党政治は急速に力を失い、軍部の政治的発言力が極めて強まっていた。広田弘毅内閣、林銑十郎内閣と短命の政権が続く中、軍部と政党、さらには国民の間の亀裂を修復し、国内体制をまとめる「挙国一致」の指導者が求められていた。そこで白羽の矢が立ったのが、五摂家筆頭という最高の名門の出身であり、若くして知的で国民的な人気も高かった近衛文麿であった。元老・西園寺公望の推挙により、近衛は各界からの熱狂的な期待を背負って第1次内閣を組織した。

盧溝橋事件と日中戦争の泥沼化

組閣からわずか1ヶ月後の1937年7月7日、北京郊外で日中両軍が衝突する盧溝橋事件が発生した。近衛内閣は当初「事態不拡大」の方針を示したものの、陸軍強硬派やマスメディアの煽動を受けた好戦的な世論に押し切られる形で、まもなく華北への派兵(北支派兵声明)を決定した。これを機に戦火は上海から中国全土へと拡大し、宣戦布告なき全面戦争である日中戦争(支那事変)へと突入した。

近衛内閣はドイツの駐華大使トラウトマンを通じた和平工作(トラウトマン工作)を試みたが、日本側の過大な要求により交渉は難航した。1938年1月、首都南京を占領し戦局を有利と見た近衛は、突如として「国民政府を対手(あいて)とせず」とする強硬な声明(第一次近衛声明)を発表した。これにより蔣介石政権との和平交渉の道は自ら閉ざされ、日中戦争は出口のない泥沼の長期戦へと陥っていくことになった。

国家総動員法と戦時体制の構築

戦争の長期化に伴い、膨大な軍需物資と人的資源の動員が不可欠となった近衛内閣は、国内の戦時体制構築を急いだ。1937年9月には、国民に戦争への協力と耐乏を強いる国民精神総動員運動を開始し、10月には物資動員計画を策定する国策の最高機関として企画院を設置した。

さらに1938年4月には、議会の承認を経ずに、勅令によって労働力や物資などの国家資源を統制・動員できる権限を政府に与える国家総動員法を制定した。議会からは憲法違反との批判も出たが、軍部と右翼の圧力を前に押し切られた。これにより、帝国議会の立法権や予算審議権は著しく形骸化し、日本は本格的な国家総力戦体制への移行を決定づけられた。

「東亜新秩序」の提唱と内閣の瓦解

戦局の行き詰まりを打破するため、近衛内閣は1938年11月に第二次近衛声明を発表し、日本の戦争目的が単なる領土的野心ではなく、日本・満州・中国の連携による「東亜新秩序」の建設にあると主張した。翌12月には、善隣友好・共同防共・経済提携からなる「近衛三原則」(第三次近衛声明)を示し、国民政府から離反した汪兆銘(おうちょうめい)を擁立して新たな親日政権を樹立する工作を進めた。

しかし、こうした外交的・政治的努力にもかかわらず、抗日民族統一戦線を結成した中国側の激しい抵抗の前に、戦局の根本的な解決の糸口は掴めなかった。事態の収拾能力を失い、軍部や国内各層からの圧力に耐えきれなくなった近衛は、政権を放り出す形で1939年1月に内閣総辞職に踏み切った。国民の圧倒的期待を受けて誕生した第1次近衛文麿内閣であったが、結果として日本の破滅的な大戦への決定的な第一歩を踏み出させることとなったのである。

大政翼賛会への道 近衛新体制 (講談社学術文庫 2340)

国家総動員体制へと突き進んだ近衛文麿の野望と、その蹉跌から日本の破滅への道筋を鮮やかに描き出した一冊。

昭和の歴史 10

太平洋戦争開戦直前の緊迫した世相と、時代の奔流に翻弄された日本国民の苦悩を克明に記録した貴重な歴史的資料。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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