盧溝橋事件 (ろこうきょうじけん)
【概説】
1937(昭和12)年7月7日、北京南西郊外の盧溝橋付近で発生した日本軍(支那駐屯軍)と中国軍の武力衝突事件。当初は局地的な小競り合いであったが、日中双方の強硬姿勢や派兵行動によって事態は拡大し、泥沼の全面戦争である日中戦争(支那事変)へと突入する決定的な発端となった。
事件の背景と華北の緊迫
満州事変以降、日本は華北分離工作を推進し、冀東防共自治政府などを樹立して中国・国民政府の影響力を同地域から排除しようと図っていた。一方、中国国内では1936年の西安事件を機に、国民党と共産党が内戦を停止し抗日の一致を目指す動き(後の第2次国共合作)が急速に進展し、民族主義的な抗日気運が高まっていた。当時、日本軍(支那駐屯軍)は義和団事件後の北京議定書に基づいて北京・天津地方に駐留していたが、条約の規定を超えて部隊を増強し、頻繁に軍事演習を行っていたため、中国軍(国民革命軍第29軍)との緊張状態は極限に達していた。
「七・七事変」の発生と現地停戦協定
1937年7月7日夜、北京郊外の宛平県城に近い盧溝橋付近で夜間演習を行っていた日本軍部隊に対し、何者かが発砲する事件が起きた。この際、日本軍の兵士1名が一時行方不明となった(直後に原隊へ復帰した)。これを中国軍の不法攻撃と判断した日本軍は、翌8日早朝から宛平県城に向けて砲撃を行い、戦闘を開始した。しかし、事態の拡大を望まない現地軍同士の交渉が直ちに持たれ、7月11日には両軍間で停戦協定(松井・秦徳純協定)が結ばれ、事件はいったん収束するかに見えた。
不拡大方針の破綻と派兵声明
現地で停戦が合意されたにもかかわらず、日本の第1次近衛文麿内閣は7月11日、事態を「中国側の計画的武力行使」と断定し、「不拡大方針」を掲げながらも同時に内地3個師団の「北支派兵」を声明するという矛盾した決定を下した。この強硬な増強決定が中国側を極度に硬化させ、蔣介石は「最後の関頭」として徹底抗戦の意思を表明した。その後も郎坊事件や広安門事件などの武力衝突が相次ぎ、現地の停戦協定は完全に崩壊することとなった。
日中全面戦争(支那事変)への突入
8月に入ると戦火は華北にとどまらず、華中の上海へと飛び火して第2次上海事変が勃発した。近衛内閣は「支那側ノ暴戻ヲ膺懲」すると声明を出し、戦域は中国全土へと拡大していった。宣戦布告が行われなかったため、この戦争は日本側では「事変」と呼称された。局地的衝突であった盧溝橋事件は、日本が泥沼の長期戦に引きずり込まれ、やがて太平洋戦争による国家の破局へと向かうこととなる、近代日本史における後戻りのできない重大な分岐点であった。