矢内原事件 (やないはらじけん)
【概説】
1937(昭和12)年、東京帝国大学教授の矢内原忠雄が、日中戦争や政府の対外政策を批判したことにより辞職に追い込まれた思想弾圧事件。日中戦争勃発後の言論統制の強化を象徴する出来事であり、大学の自治と学問の自由が著しく侵害された。進む軍国主義化に対し、キリスト教的良心から抵抗を示した知識人の悲劇として知られる。
事件の背景と矢内原のキリスト教的平和主義
東京帝国大学経済学部教授であった矢内原忠雄は、新渡戸稲造の門下として植民政策学を研究する傍ら、内村鑑三に師事した熱心な無教会主義のキリスト教徒であった。彼は学問的知見とキリスト教信仰に基づき、日本の朝鮮や台湾、さらには中国満洲(中国東北部)への武力進出に対して一貫して批判的な態度をとっていた。1937年7月に日中戦争が勃発すると、言論界や学界が挙国一致の戦争支持に傾くなかで、矢内原はキリスト教精神に基づく反戦・非戦の主張を堅持した。特に同年9月に総合雑誌『中央公論』に発表した論文「国家の理想」において、弱小国を侵略し、虚偽と暴力に依拠する国家は滅亡すると暗に批判したことが、右翼勢力や軍部、文部省から猛烈な攻撃を浴びる要因となった。
大学の自治の屈服と戦時思想統制の完成
軍部や右翼からの圧力が高まるなか、東京帝国大学学内でも矢内原を擁護する声は小さく、大学当局は政権や軍部との対立を恐れて妥協の道を模索した。結果として、1937年12月に矢内原は自主退職という形で東大教授の辞職へと追い込まれた。この事件は、1933年の京都帝国大学における滝川事件に続き、国策に反する学説や言論が「国家の赤化」や「国体への違背」として容赦なく排除される実態を如実に示した。矢内原の失脚以降、日本の学問・言論界における戦争批判や帝国主義批判は完全に封殺され、翌1938年には同僚の河合栄治郎が著作発禁処分を受けるなど、言論・思想の戦時統制は極限にまで達することとなった。なお、矢内原は戦後の1945年に復職し、後に東京大学総長を務めている。