正倉院(宝庫)
【概説】
光明皇太后が聖武天皇の七七忌(四十九日)に際し、その遺愛品を東大寺の盧舎那仏(大仏)に献納したことに始まる宝物庫。シルクロードを通じてペルシャや唐からもたらされた国際色豊かな美術工芸品や古代の文書などを多数収蔵し、天平文化の粋を現代に伝えている。
正倉院の起源と「正倉」の由来
本来「正倉」とは、奈良・平安時代において諸国の国衙(役所)や大規模な寺院に設けられた重要な物品や税(穀物など)を納めるための公的な倉庫のことである。それらが複数集まった区画を「正倉院」と呼んだ。しかし、長い歴史の中で他の正倉は失われ、現在では東大寺に位置するこの宝庫のみが残ったため、「正倉院」という言葉自体が東大寺のこの建物を指す固有名詞となっている。
正倉院の宝物の形成は、756年(天平勝宝8歳)に聖武天皇が崩御したのち、その妃である光明皇太后が夫の七七忌(四十九日の法要)にあたり、聖武天皇の冥福を祈ってその遺愛品約600点などを東大寺の盧舎那仏(大仏)に献納したことに端を発する。この時の献納目録が『東大寺献物帳(国家珍宝帳)』として現在も残されており、正倉院宝物の根幹をなしている。
建築様式と奇跡的な保存状態
正倉院の宝庫は、断面が三角形の木材(校木)を井桁状に組み上げて壁とする校倉造(あぜくらづくり)という建築様式で建てられている。内部は北倉・中倉・南倉の三つの空間に分かれており、総ヒノキ造りの巨大な高床倉庫である。かつては、校木が湿度の高い夏には膨張して隙間を塞いで湿気を防ぎ、乾燥する冬には収縮して風通しを良くするという「自動湿度調節機能」が宝物を守ったと説明されてきた。しかし近年の研究では、建物自体の調湿機能よりも、宝物を収納していた厚いスギ材の唐櫃(からびつ)の密閉性が優れた保存状態をもたらしたことが判明している。
また、正倉院が1200年以上にわたって宝物を散佚から守り抜けた最大の理由は、その厳重な管理体制にある。特に聖武天皇の遺品が納められた北倉は、天皇の勅命(許可)がなければ扉を開くことができない勅封(ちょくふう)という厳格な制度の下に置かれ、これが長い戦乱や災害の時代においても宝物が外部に流出するのを防ぐ決定的な役割を果たした。
「シルクロードの東の終着点」としての世界的意義
正倉院に収蔵されている約9000件に及ぶ宝物は、奈良時代の天平文化の特質を如実に物語っている。天平文化は、国際色豊かで繁栄を極めた唐の文化の影響を色濃く受けており、正倉院宝物の中には、遠くペルシャ(ササン朝)やインド、西域、唐で制作され、シルクロードを経由して日本へもたらされた品々が多数含まれている。
代表的なものとして、ペルシャ由来のカットグラスである白瑠璃碗(はくるりのわん)や、世界で唯一現存する五本の弦を持つ琵琶螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)、西域の遊牧民の生活用具を模した漆胡瓶(しっこへい)などが挙げられる。このようにユーラシア大陸各地の文化の粋が一堂に会し、しかも土中から発掘された「出土品」ではなく、地上で大切に保管されてきた「伝世品」として当時の輝きを保っている例は世界に類を見ない。そのため、正倉院はしばしば「シルクロードの東の終着点」と称され、世界史的にも極めて高い価値を有している。
古代史研究の宝庫「正倉院文書」
正倉院の価値は、煌びやかな美術工芸品にとどまらない。中倉などには、東大寺の写経所に関する膨大な文書群、いわゆる正倉院文書(しょうそういんもんじょ)が保管されていた。当時、紙は非常に貴重であったため、不要になった公文書(戸籍、計帳、正税帳など)の裏面を再利用して写経所の帳簿や業務記録が書かれた。この「紙背文書」がそのまま保存された結果、意図せずに奈良時代の政治・経済・税制・地方社会の様子を伝える一級の歴史史料が現代に残ることとなった。
特に、班田収授法の実態を知るための戸籍や計帳などは、正倉院文書が存在しなければ詳細な研究は不可能であったと言っても過言ではない。美術史のみならず、日本古代史研究を根底から支える巨大なタイムカプセルとして、正倉院は現在も計り知れない学術的意義を持ち続けている。