大内兵衛

労農派のマルクス主義経済学者として知られ、1938年の第1次人民戦線事件で治安維持法違反により検挙された東京帝大教授は誰か?
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重要度
★★

【参考リンク】
大内兵衛(Wikipedia)

大内兵衛 (おおうちひょうえ)

1888年〜1980年

【概説】
大正から昭和時代にかけて活躍した、マルクス主義経済学・財政学の先駆者。東京帝国大学教授として優れた研究・教育活動を展開したが、戦前の軍国主義化のなかで森戸事件や人民戦線事件により二度にわたって大学を追われた。戦後は東大教授に復帰し、さらに法政大学総長などを歴任して、日本の民主主義と言論の自由を擁護し続けた代表的な知識人である。

学問的出発と「森戸事件」による挫折

大内兵衛は東京帝国大学を卒業後、大蔵省勤務を経て同大の助教授となった。財政学や統計学の専門家として将来を嘱望されていたが、1920年(大正9年)に「森戸事件」が発生し、その学問的キャリアは初期段階で大きな打撃を受ける。同僚の森戸辰男が学術誌に発表した無政府主義者クロポトキンの思想紹介論文が、皇室の尊厳を冒す「朝憲紊乱(ちょうけんびらん)」として起訴された際、大内は同誌の編集責任者であったために連座して休職処分となった。

この事件は、大正デモクラシー期における「学問の自由」と「大学の自治」に対する国家権力の介入の端緒であった。大内はこの挫折を機にヨーロッパへ留学し、帰国後の1925年(大正14年)に東大教授に復職。マルクス経済学の視点を取り入れた独自の財政学体系を構築し、日本における社会科学研究の牽引役(いわゆる労農派の論客)となっていった。

日中戦争下の「人民戦線事件」と免官

1930年代に入り、日本が満州事変を経て軍国主義の道を歩み始めると、治安維持法によるマルクス主義者や自由主義者への思想弾圧が激化した。その頂点の一つが、1937年から1938年にかけて発生した「人民戦線事件」である。ファシズムに対抗する知識人の連携(人民戦線運動)を阻止するため、国家権力は非合法の共産党員にとどまらず、合法的な社会主義者や自由主義的な学者をも一斉に検挙した。

大内は1938年の第二次検挙で、山川均や有沢広巳らとともに検挙され、東大を再度休職、のちに免官処分となった。この事件は、大学から反体制的とみなされた学者を排除し、学問の世界を戦時体制へと適合させるための政治的弾圧であった。大内らは裁判で無罪を主張し、最終的には無罪判決を勝ち取ったものの、戦時中は不遇の沈黙期を過ごすこととなった。

戦後の復帰と平和主義・言論界への貢献

1945年(昭和20年)の敗戦とともに、大内は東大教授への復帰を果たし、経済学部長などを務めて学界の再建に奔走した。戦後の言論の自由が確立された環境下で、大内は日本社会党(特に左派)の有力なブレーンとなり、マルクス主義経済学の立場から戦後日本の経済復興政策に関与した。

また、1950年からは法政大学総長に就任し、同大の近代化と学問的自由の確立に尽力した。大内は、戦前の二度にわたる弾圧と投獄の経験から、日本国憲法が掲げる平和主義と民主主義を何よりも重んじ、知識人グループ「平和問題談話会」などで活動。戦後日本の知識人社会における良心的な精神的支柱として、生涯にわたり平和運動や護憲運動に影響を与え続けた。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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