賃金統制令
【概説】
日中戦争の長期化に伴う戦時インフレを抑制するため、1939年(昭和14年)に制定された勅令。国家総動員法第6条に基づいて発令され、労働者の初任給制限や賃上げの原則禁止などを規定した。戦時下の日本における強力な統制経済・労働統制を象徴する法制度の一つである。
日中戦争の長期化と賃金統制令の制定背景
1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争が泥沼化するなか、近衛文麿内閣は物資や労働力を国策に集中させるため、1938年に国家総動員法を制定した。戦時体制への移行に伴い、軍需産業が急速に拡大したことで深刻な労働力不足(特に熟練工の不足)が発生し、企業間での激しい労働者争奪戦が展開されることとなった。
各企業が高給を提示して労働者を募った結果、賃金は急激に上昇した。この賃金上昇は生産コストを押し上げ、さらなる物価高騰を招くという戦時インフレの危機を引き起こした。事態を重く見た平沼騏一郎内閣および続く阿部信行内閣は、物価と賃金の双方を国家の管理下に置く強力な価格統制へと舵を切ることとなった。
「九・一八停止令」と賃金統制令の仕組み
1939年9月、政府は物価・家賃・賃金などを1939年9月18日の水準で凍結する、いわゆる「九・一八停止令」(価格等統制令、地代家賃統制令、賃金臨時措置令などからなる一連の経済統制)を発表した。これを受けて、同年10月に正式に公布されたのが賃金統制令である。
賃金統制令の主な内容は、新規採用労働者の初任給(初発賃金)に上限を設けること、および既存労働者の基本給や手当の引き上げ(昇給・賃上げ)を原則として禁止・凍結することであった。これにより、労働者がより高い賃金を求めて自由に転職する道は実質的に閉ざされ、労働力は国策に沿って軍需産業へと強制的に配置・固定化されることとなった。
戦時労働統制への展開と歴史的影響
賃金統制令の導入は、労働運動が徹底的に弾圧・解体され、官民一体の産業報国会(大日本産業報国会)へと再編成されていく労働統制の流れと軌を一にしていた。労働者の自発的な待遇改善要求は「利敵行為」として封殺され、賃金は生活の維持というよりも、国力を維持・増進するための戦力として国に管理されるものへと変質した。
一方で、一律の賃金凍結はインフレ下における労働者の生活困窮を招いたため、政府はのちに家族手当や能率給の導入など、一定の例外や修正を余儀なくされた。この時期に模索された、生計費を基準とする「生活給」の思想や、職務や年齢に応じた組織的な賃金体系は、皮肉にも戦後の日本の雇用慣行(年功序列型賃金など)や、戦後の労働運動における電産型賃金体系の形成に大きな影響を与えることとなった。