火野葦平 (ひのあしへい)
【概説】
昭和期に活躍した日本の小説家。日中戦争期に従軍作家として執筆した『麦と兵隊』などの「兵隊3部作」で一世を風靡し、戦時下の国民的作家となった人物。
文壇への登場と「兵隊作家」の誕生
火野葦平(本名・玉井茂兵衛)は福岡県若松市(現・北九州市)の港湾労働者(沖仲仕)を統率する玉井組の家に生まれた。早稲田大学英文科を中退後、家業を手伝いながら文学活動や労働運動に関わった。1937(昭和12)年に応召され、陸軍伍長として日中戦争に出征する。その出征中に、地元のし尿汲み取り業者をユーモラスに描いた小説『糞尿譚(ふんにょうたん)』によって第6回芥川賞を受賞した。陣中で受賞の報を受け取ったニュースは、戦時下の日本社会で「兵隊作家」として大きな話題を呼ぶこととなった。
この劇的なデビューを機に、火野は陸軍報道部に転属となり、従軍作家として戦場を克明に記録する役割を担うこととなった。これが後の彼の文学的栄光と、戦後の苦悩の始まりであった。
「兵隊3部作」のベストセラー化と文学国策
火野は報道部員として戦地を巡り、1938(昭和13)年に徐州会戦の体験をもとにした『麦と兵隊』を発表した。本作は軍部の検閲を受けつつも、戦場における兵士たちの素朴な人間性、戦争の凄惨さや泥臭さをリアルに描いたことで、銃後の国民から爆発的な支持を得た。続いて『土と兵隊』『花と兵隊』を発表し、これらは「兵隊3部作」と称されてミリオンセラーとなった。
日中戦争から太平洋戦争期にかけて、東条英機内閣などは国家総動員体制のもとで、国民の戦意高揚を図るために文学者をも組織化した(文学報国会の設立など)。火野の作品は、軍部によるプロパガンダ(宣伝活動)に深く合致するものとして利用された。しかし、火野自身は単なる戦争賛美ではなく、戦場に生きる「兵隊」という一個の人間をヒューマニズムの視点から描こうとしており、そのリアリズムが結果として国民を強く惹きつけ、戦争協力を促す効果を持つことになったという歴史的二面性を有している。
戦後の公職追放と知識人の戦争責任
1945(昭和20)年の敗戦にともない、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本における軍国主義の排除に乗り出すと、戦時中に国民の戦意高揚に深く関わった文化人の責任が追及された。火野は日本文学報国会の役員を務めていたこともあり、1948(昭和23)年に公職追放(文筆活動禁止)の処分を受けた。
追放解除後は、再び作家として執筆活動を再開し、地元の北九州を舞台に自身の親(玉井金五郎・マサ夫妻)をモデルとした『花と龍』などの名作を残した。しかし、戦時中の自己の戦争協力に対する苦悩や精神的葛藤は生涯消えることがなかった。1960(昭和35)年、自宅にて睡眠薬を服用し自殺(服毒自殺)を遂げた。彼の生涯と作品は、近代日本における「国家と文学者(知識人)」の関係性、および「戦争責任」のあり方を問いかける象徴的な事例として、日本近現代史において重要な位置を占めている。