東部内蒙古
【概説】
中国のモンゴル(蒙古)地域のうち、南満洲に隣接する東半分に該当する地域。第一次世界大戦期の1915年、日本が中華民国の袁世凱政権に対して突きつけた「対華二十一カ条の要求」において、南満洲とともに日本の特殊権益の拡張対象とされた地政学的重要拠点である。
「南満東蒙」の画定と対華二十一カ条の要求
日露戦争(1904〜05年)の勝利以降、日本はポーツマス条約や日露協約を通じて、長春以南の南満洲を自国の勢力圏として確立していった。しかし、満洲支配をさらに安定化させ、背後に控えるロシア帝国や中国の動向に対抗するためには、南満洲の西側に位置する東部内蒙古(現在の内モンゴル自治区東部)への進出が不可欠と考えられた。このため日本政府や陸軍は、南満洲と東部内蒙古を一体のものとする「南満東蒙(なんまんとうもう)」という地政学的な地域概念を提起するにいたった。
第一次世界大戦の勃発(1914年)という「天佑」に乗じ、大隈重信内閣(加藤高明外相)は1915年1月、中華民国の袁世凱大総統に対して対華二十一カ条の要求を提出した。このうちの「第二号」が、南満洲および東部内蒙古における日本の地位を確固たるものにすることを目指した内容であった。日本はこれにより、東部内蒙古における農業・工業目的の土地貸借権や商租権(商工業のための借地・経営権)、合弁事業の優先権を要求し、同年の最後通牒を経て条約締結に至り、権益拡大を認めさせた。
地域支配の模索と「満蒙問題」への展開
日本は権益の獲得にとどまらず、東部内蒙古を実質的な勢力圏とするための画策を続けた。辛亥革命後の中国の混乱期には、参謀本部などが現地モンゴル人の独立機運を利用し、日本に有利な政権を樹立させようとする「満蒙独立運動(第二次満蒙独立運動など)」を裏で支援した。しかし、これらの工作は現地の軍閥情勢の複雑さや、対華二十一カ条の要求に対して中国全土で巻き起こった激しい排日ボイコット運動、さらには米英などの帝国主義列強からの警戒と抗議に直面し、一時的な挫折を余儀なくされた。
大正期から昭和初期にかけて、この「満蒙」地域は日本の資源確保や対ソ連防衛のために不可欠な「生命線」であるとする主張が、陸軍や南満洲鉄道(満鉄)を中心に定着していった(満蒙問題)。東部内蒙古は、南満洲を防衛するための緩衝地帯、また将来の中国・ソ連侵攻への足がかりとして重視され続け、この地への強い執着がのちの1931年における満洲事変、ひいては1930年代後半の「内蒙工作(徳王を首班とする蒙古聯合自治政府の樹立など)」へと地続きでつながっていくこととなる。