第3次日露協約

1912年、辛亥革命の勃発に乗じて、日露両国が内蒙古を東西に分割して互いの特殊権益地域と定めた協約は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
日露協約(Wikipedia)

第3次日露協約

1912年

【概説】
辛亥革命による中国大陸の動乱を契機として、日本とロシア帝国の間で締結された第3回目の協調協定。従来の満洲における勢力圏の確認にとどまらず、新たに内蒙古(内モンゴル)を東西に分割して両国の特殊権益地域と定めた二国間条約。

辛亥革命の勃発と日露の接近

日露戦争(1904〜05年)の終結後、日本とロシアは敵対関係から一転して協調関係へと移行した。1907年の第1次、1910年の第2次日露協約を通じて、両国は清朝支配下の満洲(中国東北部)におけるそれぞれの勢力圏(南満洲を日本、北満洲をロシア)を相互に承認し合い、アメリカなどの新興勢力の進出を阻んできた。

このような状況下、1911年10月に中国で辛亥革命が勃発する。清朝の支配力が急速に衰退し、翌1912年に中華民国が建国されるという大激変のなかで、満洲や隣接する蒙古(モンゴル)地域における秩序の空白が生じた。これを自国の権益拡大の好機と捉えた日本(第2次西園寺公望内閣)とロシアは、従来の協約を改訂・強化して新たな東アジアの勢力均衡を画定する必要性に迫られた。

内蒙古分割と東経116度27分線

1912年7月8日、聖ペテルブルクにおいて、日本の本野一郎駐露公使とロシアのサゾーノフ外相との間で第3次日露協約が調印された。この協約の最大の特徴は、日露の勢力圏画定の対象を、これまでの満洲から内蒙古(内モンゴル)へと拡大した点にある。

協約の秘密条項において、両国は北京を通る東経116度27分線を境界として設定した。この境界線より東側の「東部内蒙古」を日本の勢力範囲とし、西側の「西部内蒙古」をロシアの勢力範囲として相互に認め合った。これにより、日本は南満洲に加えて東部内蒙古へも地政学的・経済的な支配権(特殊権益)を及ぼす法的根拠(日露間における)を獲得することとなった。

帝国主義的妥協の完成とその後の歴史的展開

第3次日露協約の締結により、日露両国による中国東北部から内蒙古に及ぶ巨大な防壁(勢力圏)が完成した。これは、中国の主権や「門戸開放・機会均等」を唱えるアメリカなどの反発を無視した、典型的な帝国主義的妥協であった。日本にとっては、後に叫ばれることとなる「満蒙(満洲・蒙古)一体化」の国策を推進するための重要な一歩となった。

この日露の協調体制は、1914年に勃発した第一次世界大戦下においてさらに強化され、1916年には軍事同盟の色彩を帯びた第4次日露協約へと発展する。しかし、1917年にロシア革命が起こり、ロマノフ朝の帝国が崩壊してソビエト政権が誕生したことで、一連の日露協約体制はすべて破棄され、両国関係は新たな対立の時代へと突入することになる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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