ボリシェヴィキ
【概説】
ロシア社会民主労働党の左派(多数派)から発展し、レーニン指導のもとでロシア革命(十月革命)を成功させた指導的組織。世界初の社会主義政権を樹立し、のちに「ロシア共産党」へと改称した。
ロシア革命の主導と「ボリシェヴィキ」の台頭
ボリシェヴィキは、1903年に結成されたロシア社会民主労働党の第2回大会において、レーニンが率いる急進的な左派グループとして誕生した。ロシア語で「多数派」を意味する語に由来し、少数の職業革命家による武装蜂起とプロレタリア独裁を主張して、穏健派であるメンシェヴィキ(少数派)と対立した。
第一次世界大戦の最中である1917年、ロシアで二月革命が勃発して帝政が崩壊すると、レーニンは「すべての権力をソヴィエトへ」をスローガンに掲げて帰国。同年の十月革命(十一月革命)において、ボリシェヴィキは武力蜂起を指導して臨時政府を打倒し、世界初の社会主義政権を樹立した。その後、1918年には党名を「ロシア共産党」と改称し、一党独裁体制を固めていくこととなる。
日本シベリア出兵と対ソ干渉戦争
ボリシェヴィキによる政権奪取と、その後に表明された対独単独講和(ブレスト=リトフスク条約)は、連合国側に大きな衝撃を与えた。とりわけ大日本帝国政府は、東アジアや満州、朝鮮半島に社会主義思想(当時は「過激派思想」と呼称された)が波及することを極度に恐れた。
これに対し、寺内正毅内閣は1918年、連合国と同調する形でシベリア出兵を断行した。名目はチェコスロバキア軍の救済であったが、実質的にはボリシェヴィキ政権(赤軍)を打倒し、反革命勢力(白軍)を支援するための軍事干渉であった。日本軍は他国が撤兵した後も1922年まで駐留を続け、ボリシェヴィキ勢力との間で激しい戦闘を繰り広げた。この出兵にともなう米の買い占めは、大正デモクラシー期における最大の民衆暴動である米騒動を引き起こす契機ともなった。
日本国内の社会運動・思想界への決定的な影響
ボリシェヴィキの勝利は、大正期の日本の知識人、労働者、農民に対しても極めて強い思想的衝撃を与えた。それまで無政府主義(アナキズム)が主流であった日本の社会主義運動は、ボリシェヴィキの成功によって急激にマルクス・レーニン主義(ボリシェヴィズム)へと傾斜していく。
堺利彦や山川均、荒畑寒村らはボリシェヴィキの理論を熱心に受容し、1922年にはコミンテルン日本支部として非合法の日本共産党が結成された。また、労働運動や小作争議の過激化を懸念した原敬内閣やその後の政府は思想取締を強化。大正末期の1925年には、日ソ国交樹立(日ソ基本条約)と引き換えにする形で治安維持法を制定し、ボリシェヴィキ思想の流入を「国体の変革」を企てるものとして厳しく弾圧した。