原敬内閣

陸海軍・外務の各大臣を除く全閣僚を、与党である立憲政友会の党員で構成した日本初の本格的な政党内閣は何か?
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★★★

【参考リンク】
原内閣(Wikipedia)

原敬内閣 (はらたかしないかく)

1918年〜1921年

【概説】
米騒動の激化による寺内正毅内閣の総辞職を受け、立憲政友会総裁の原敬が組閣した日本初の本格的政党内閣。陸海軍大臣と外務大臣を除く全閣僚を政友会党員で固め、華族の爵位を持たない原は「平民宰相」と呼ばれて国民から熱狂的な支持を集めた。

米騒動と「平民宰相」の誕生

1918年(大正7年)、シベリア出兵を見越した米の買い占めなどにより米価が急騰し、富山県の漁村から始まった米騒動は瞬く間に全国へ波及した。藩閥・官僚中心の超然内閣であった寺内正毅内閣は軍隊を出動させてこれを鎮圧したが、国民の激しい反発を招いて総辞職に追い込まれた。この未曾有の大衆運動を目の当たりにした元老の山県有朋らは、もはや官僚や軍人だけでは国家の統治が不可能であると悟り、衆議院の第一党であった立憲政友会の総裁・原敬に大命を降下したのである。

原敬は、伊藤博文の系譜を継ぐ政友会を実用的な近代政党へと育て上げた辣腕の政治家であった。彼は組閣にあたり、陸海軍大臣および外務大臣を除くすべての閣僚ポストを政友会の党員で固めた。過去には1898年の第1次大隈重信内閣(隈板内閣)という政党内閣の例があったが、内部対立によりわずか数ヶ月で崩壊していたため、原内閣こそが日本で最初の「本格的政党内閣」と評価されている。また、原は衆議院に議席を持つ初の首相であり、華族の爵位を持たなかったことから「平民宰相」と呼ばれ、大正デモクラシーの風潮の中で民衆から大いに歓迎された。

積極政策の展開と「四大政綱」

原内閣は、国家の近代化と政党基盤の強化を目指し、「四大政綱」(教育の振興、産業の開発、交通機関の整備、国防の充実)を掲げて積極的な政策を展開した。

教育面では、1918年に大学令や高等学校令を公布し、それまで帝国大学のみに限定されていた大学の設立を公立・私立・単科大学にも認可し、高等教育の門戸を大きく広げた。産業・交通面では、鉄道敷設法を推進して地方の鉄道路線網を急速に拡大させた。しかし、これらのインフラ整備は政友会の支持基盤である地方の地主や実業家に利益を誘導する側面が強く、野党や言論界からは「我田引鉄(がでんいんてつ)」などの批判を浴びることとなった。

選挙制度改革と普通選挙への反対

大正デモクラシーの高揚に伴い、大衆政治参加を求める声は強まっていた。原内閣は1919年(大正8年)に衆議院議員選挙法を改正し、選挙権の納税資格を直接国税「10円以上」から「3円以上」へと大幅に引き下げ、有権者数を従来の約150万人から約300万人へと倍増させた。同時に、大選挙区制から小選挙区制へと移行させた。

しかし、原は当時高まりを見せていた普通選挙(普選)の導入に対しては、「時期尚早」であるとして断固反対の立場をとった。納税資格の引き下げと小選挙区制の導入は、都市部の労働者階級よりも、政友会の有力な支持基盤であった地方の地主や農村層の票を固めるための党利党略的色彩が強いものであった。このため、普選を求める都市の学生や労働者、知識人からは次第に失望を買うようになった。

外交政策と原内閣の終焉

外交面では、第一次世界大戦後の国際秩序形成の場となったパリ講和会議(1919年)に全権団(西園寺公望・牧野伸顕ら)を派遣し、日本は国際連盟の常任理事国となった。また、中国で起きた五・四運動や朝鮮での三・一独立運動といった民族運動に対しては、武力鎮圧と並行して統治方式を一部緩和する(文化政治)などの対応をとった。しかし、莫大な戦費を浪費していたシベリア出兵については、即時撤兵を決断することができなかった。

政党政治の確立に大きく貢献した原内閣であったが、末期には戦後恐慌による経済の悪化や、複数の疑獄事件(汚職事件)の発覚により批判が高まった。そして1921年(大正10年)11月、原敬は東京駅頭で右翼の青年に暗殺されるという非業の死を遂げた。原の死後、内閣は高橋是清が引き継いだものの政友会内部の対立で瓦解し、政党内閣の時代は一時的に頓挫する。しかし、原が切り拓いた政党政治の実績は、数年後の護憲三派内閣成立から始まる「憲政の常道」の時代へと確実につながっていくのである。

原敬-「平民宰相」の虚像と実像 (中公新書, 2660)

政党政治の確立に奔走した原敬の生涯を多角的な史料から紐解き、その実像と知られざる政治的軌跡を鮮やかに描き出した一冊。

日本政党史

明治から昭和初期に至る日本の政党政治の展開を、構造的な視点から精緻に分析し、現代にも通じる権力闘争の本質を突く論考。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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