幣原外交 (しではらがいこう)
【概説】
大正デモクラシー期から昭和初期にかけて、憲政会および立憲民政党内閣において外務大臣を務めた幣原喜重郎が推し進めた外交路線の通称。第一次世界大戦後のワシントン体制に順応して英米との協調を図り、中国への内政不干渉と武力によらない経済的進出を目指したが、世界恐慌と満洲事変の勃発によって挫折を余儀なくされた。
幣原外交誕生の背景と基本理念
第一次世界大戦後の国際社会は、国際連盟の創設やワシントン会議(1921〜1922年)の開催を経て、軍縮と平和構築へと向かう新たな国際秩序、いわゆる「ワシントン体制」を形成していた。こうした中、1924年(大正13年)に成立した護憲三派による加藤高明内閣において外務大臣に就任したのが、元駐米大使の幣原喜重郎である。
幣原外交の基本方針は、英米を中心とする列強との国際協調と、中国に対する内政不干渉に集約される。当時は大正デモクラシーの只中にあり、膨張する軍事費の削減が社会的要請となっていた。幣原は、武力による領土拡張や強硬な権益拡大策(帝国主義的アプローチ)を退け、通商貿易の拡大による経済的利益の追求を重視する「経済外交」を展開することで、日本の近代化と国際社会での地位向上を目指した。
第一次幣原外交の展開と中国情勢
第一次幣原外交(1924〜1927年)は、加藤高明内閣およびそれに続く第1次若槻礼次郎内閣の下で推進された。この時期の代表的な成果として、1925年にソヴィエト連邦との間に日ソ基本条約を締結して国交を樹立し、シベリア出兵以降占領を続けていた北樺太からの撤兵を完了させたことが挙げられる。
一方、当時の中国では軍閥による内戦が続き、列強に対する国権回復運動(反帝・反日運動)が激化していた。1925年の五・三〇事件や1927年の南京事件などに際しても、幣原は列強による共同での武力干渉の誘いを断り、一貫して不干渉の態度を貫いた。しかし、この穏健な姿勢は、中国に在留する日本人保護や既得権益の維持としては不十分だとして、国内の保守派や枢密院から「軟弱外交」との激しい批判を浴びることとなった。
田中義一内閣の「積極外交」との対立
1927年(昭和2年)、昭和金融恐慌への対応に行き詰まった若槻内閣が倒れると、立憲政友会を率いる田中義一内閣が成立した。田中内閣は幣原の「軟弱外交」を真っ向から批判し、中国情勢に対して武力を背景に直接的に介入する「積極外交」へと転換を図った。
田中内閣は、蒋介石の北伐に対して日本の特殊権益(特に満洲や内蒙古)を防衛するという名目で山東出兵を強行し、結果的に済南事件を引き起こして日中関係を極度に悪化させた。さらに1928年の張作霖爆殺事件の処理を巡って天皇の不信を買い内閣が総辞職すると、強硬路線の限界が露呈し、再び協調外交への回帰を求める声が高まった。
第二次幣原外交と軍縮への努力
1929年(昭和4年)に成立した立憲民政党の濱口雄幸内閣において、幣原は再び外相に返り咲き、第二次幣原外交(1929〜1931年)がスタートした。幣原は続く第2次若槻礼次郎内閣でも外相を留任し、破綻した日中関係の修復と国際協調の再構築に奔走した。
この時期の最大の課題は軍縮の推進であった。1930年のロンドン海軍軍縮会議において、日本は補助艦の保有比率を制限する条約に調印した。これは英米との協調関係を維持しつつ、国家財政の負担を軽減する目的があったが、海軍軍令部や右翼勢力、野党である立憲政友会から「統帥権干犯」であるとして猛烈な非難を浴びることとなった。また、同年には日中関税協定を締結して中国の関税自主権を承認するなど、中国のナショナリズムに一定の理解を示す態度をとった。
幣原外交の挫折と歴史的意義
幣原外交が前提としていた国際協調主義は、1929年に発生した世界恐慌によって根底から揺るがされることとなる。列強が自国経済を優先してブロック経済化を進める中、深刻な不況に陥った日本国内では、武力を用いてでも満洲の権益を完全に掌握し、独自の経済圏を構築すべきだという強硬論(満蒙生命線論)が台頭した。
さらに、中国側のナショナリズムが高揚して満洲における日本の特殊権益への圧迫が強まると、不干渉を貫く幣原外交は、現状打破を狙う国内の軍部から完全に見切りをつけられた。1931年(昭和6年)9月、関東軍の謀略により満洲事変が勃発する。幣原は事態の不拡大を声明して国際連盟との協調を図ろうとしたが、軍部の独走を抑え込む力はもはや政府にはなく、同年12月の第2次若槻内閣の総辞職に伴い、幣原外交は完全に崩壊した。
幣原外交は、帝国主義的膨張から脱却し、国際法と経済的互恵関係に基づいた平和的な国家運営への転換を図った近代日本史における画期的な試みであった。しかし、脆弱な国内の政党政治基盤、軍部に対するシビリアン・コントロール(文民統制)の欠如、そして世界恐慌という外的要因が重なった結果、時代の荒波に呑み込まれる形で終焉を迎え、日本は破滅的な戦争と国際的孤立への道を歩み始めることとなったのである。