友愛会
【概説】
1912(大正元)年に鈴木文治らによって結成された、日本初の本格的かつ穏健な労働者団体。労働者の地位向上や相互扶助、労資協調を目的として活動を開始し、大正デモクラシー期における日本の労働運動の原点となった。のちに大日本労働総同盟友愛会、日本労働総同盟へと改組・改称され、戦前日本の労働運動を牽引する中核組織へと発展した。
設立の背景と鈴木文治の理念
明治末期から大正初期にかけて、日本は産業革命の進展により資本主義が急速に発達したが、一方で低賃金や長時間労働など劣悪な労働環境が深刻な社会問題となっていた。しかし、1900(明治33)年の治安警察法制定や、1910(明治43)年の大逆事件を経て、初期の社会主義的な労働運動は政府の徹底的な弾圧を受け、いわゆる「冬の時代」を迎えていた。
このような状況下で、1912(大正元)年8月、キリスト教の人道主義に影響を受けた知識人である鈴木文治が、労働者14名とともにユニテリアン教会において友愛会を結成した。鈴木は階級闘争を否定して労資協調を掲げ、労働者の品性向上、知識の涵養、相互扶助(共済)を主たる目的に据えた。この穏健な方針は、警察の弾圧を回避しつつ組織を存続・拡大させるための現実的な戦略でもあった。
組織の拡大と大正デモクラシー
友愛会は、機関誌『友愛』の発行による啓蒙活動や、法律相談、共済事業などを通じて労働者の信頼を獲得していった。第一次世界大戦期の未曾有の好景気(大戦景気)のもとで工場労働者が急増すると、物価高騰に伴う生活苦から各地で労働争議が頻発するようになる。友愛会はこうした争議の調停に乗り出し、労働者の権利擁護に貢献したことで急速に会員数を伸ばした。
また、この時期は大正デモクラシーの潮流が社会全体に波及していた時代でもあった。吉野作造の民本主義などに影響を受けた若手知識人や学生(麻生久や賀川豊彦など)が続々と友愛会に合流したことで、友愛会は単なる共済組織から近代的な労働組合へとその性質を変化させていった。
急進派の台頭と階級闘争路線の採用
1918(大正7)年の米騒動や、1919(大正8)年の国際労働機関(ILO)設立など、国内外の社会情勢が激変するなかで、友愛会内部でも従来の労資協調路線に対する批判が高まった。とくにロシア革命の影響を受けた若手活動家たちは、資本家に対する戦闘的な労働組合主義への転換を強く求めた。
その結果、1919年の大会で組織名を大日本労働総同盟友愛会と改称し、普通選挙の即時実施、労働組合法や労働基準法の制定などを要求する綱領を採択した。これにより、友愛会は当初の「労資協調」から「階級闘争」へと運動の舵を大きく切ることとなった。
日本労働総同盟への発展と歴史的意義
さらに1921(大正10)年には、「友愛会」の名称を外して日本労働総同盟(総同盟)へと改称し、名実ともに全国規模の労働組合のナショナル・センターとして確立した。総同盟はその後、無産政党の結成や激しい労働争議の指導に大きな役割を果たす一方で、内部での右派・左派の対立や分裂を経験していく。
友愛会が日本の労働運動史において果たした歴史的意義は極めて大きい。国家の厳しい監視下において「穏健路線」をとることで労働運動の命脈を保ち、やがて来る本格的な労働大衆運動の強固な基盤を築いたことは、大正期の社会運動を理解する上で欠かせない重要な転換点である。