森戸辰男 (もりとたつお)
【概説】
大正から昭和時代にかけて活動した経済学者、社会運動家、政治家。東京帝国大学助教授時代に発表した論文がもとで治安当局に起訴・失職させられた「森戸事件」で知られ、大正デモクラシー期における学問の自由・大学の自治への弾圧を象徴する人物。
森戸事件の勃発と「学問の自由」への弾圧
東京帝国大学経済学部の新進気鋭の助教授であった森戸辰男は、1920(大正9)年1月、同大学の機関誌『国家学会雑誌』に「クロポトキンの社会思想の研究」と題する論文を発表した。これはロシアの無政府主義(アナキズム)思想家であるピョートル・クロポトキンの思想を学問的に紹介・分析したものであったが、ロシア革命後の社会主義思想の台頭を警戒する右翼や政府から猛烈な非難を浴びることとなった。
当時の原敬内閣は、この言論を「朝憲を紊乱(びんらん)するもの」として問題視し、森戸を出張先の京都で逮捕、出版法違反の容疑で起訴した。また、同雑誌の編集責任者であった同僚の経済学者・大内兵衛も連座して起訴された。裁判の結果、森戸には禁錮3ヶ月の有罪判決が下り、東京帝国大学を免職(実質的な追放)となった。この「森戸事件」は、大正デモクラシーの興隆期において、国家権力が「学問の自由」や「大学の自治」に対して直接的な介入・弾圧を行った先駆的な事件として、日本近代史における大きな転換点となった。
戦後の軌跡と民主教育の確立
大学を追われた森戸は、大原社会問題研究所に入り、社会運動の調査研究や実践に身を投じた。第二次世界大戦の終戦を迎えると政界に進出し、日本社会党の結党に参画する。1947(昭和22)年に成立した片山哲連立内閣、および翌年の芦田均内閣において文部大臣として入閣を果たした。
文相としての森戸は、戦後日本における民主教育の根幹をなす教育基本法や学校教育法の制定・整備を主導し、日本の教育の近代化と民主化に多大な足跡を残した。さらに1950年には、新制大学として発足した広島大学の初代学長に就任。被爆地広島において「自由で平和な大学」の精神を掲げ、平和学の拠点としての大学づくりに心血を注いだ。大正期の弾圧を乗り越え、戦後の新体制において学問と教育の自由を制度として定着させたその生涯は、日本の近代知性史における重要な足跡として評価されている。