革新倶楽部 (かくしんくらぶ)
【概説】
大正時代中期に犬養毅を中心に結成され、普通選挙の即時断行などを掲げた政党。1924年(大正13年)の第二次護憲運動において憲政会、立憲政友会とともに護憲三派を構成し、政党内閣の成立と普通選挙の実現に大きく貢献した。
結成の背景と掲げた理念
1922年(大正11年)11月、犬養毅が率いる立憲国民党を中心に、無所属団(尾崎行雄らの一部)や各地の政治団体が合流して結成された政党である。当時の日本は第一次世界大戦後の大正デモクラシーの只中にあり、民衆の間で民主的な政治を求める声が急速に高まっていた。
革新倶楽部はこうした時代の要求を汲み取り、普通選挙の即時断行、軍備縮小、官僚・軍閥政治の打破、労働問題の解決といった極めて進歩的な政策を掲げた。結成時の所属議員は約40名と小規模であったが、犬養や尾崎といった雄弁家で知られる大物政治家を擁し、都市部の知識人や中産階級、学生などから強い支持を集めた。
第二次護憲運動の展開と護憲三派内閣
革新倶楽部が歴史の表舞台で最も重要な役割を果たしたのが、1924年(大正13年)の第二次護憲運動である。前年末に起きた虎ノ門事件の責任をとって山本権兵衛内閣が総辞職したのち、貴族院を基盤とする特権的な超然内閣である清浦奎吾内閣が成立した。
これに対し、革新倶楽部は政党政治の危機と捉え、加藤高明率いる憲政会、高橋是清率いる立憲政友会と提携して「護憲三派」を結成。「憲政の本義」に立ち返り、政党内閣制の確立を求める大衆運動を主導した。
同年5月に行われた第15回衆議院議員総選挙において、護憲三派は絶対多数を確保して圧勝し、清浦内閣を退陣に追い込んだ。その結果、憲政会の加藤高明を首相とする護憲三派内閣(加藤高明内閣)が成立し、革新倶楽部からは犬養毅が逓信大臣として入閣を果たした。この内閣のもとで、党の最大の悲願であった普通選挙法(1925年)や、ソ連との国交樹立(日ソ基本条約)などが実現していくこととなる。
党の解散と大正デモクラシーにおける意義
護憲三派内閣の成立によって大きな政治的成果を挙げた革新倶楽部であったが、普通選挙法成立という最大の目標が達成されたことで、かえって党としての存在意義が揺らぎ始めた。また、約30議席という小政党ゆえの資金難や、巨大な組織基盤を持つ二大政党(憲政会と立憲政友会)の間で埋没していくという構造的な弱点も抱えていた。
1925年(大正14年)5月、犬養毅が突如として政界からの引退を表明すると、党内は激しい分裂状態に陥った。最終的に、所属議員の大半は立憲政友会に合同することを選択し、残る一部の議員は中正倶楽部という新会派を結成したため、革新倶楽部は結成からわずか2年半で解散に至った。なお、犬養自身は支持者の強い慰留もあって後に引退を撤回し、立憲政友会に入党。のちに同党の総裁、そして内閣総理大臣へと上り詰めることとなる。
革新倶楽部の活動期間は極めて短かったものの、二大政党制の狭間で急進的な民主化政策を明確に唱え続け、第二次護憲運動においてはキャスティング・ボートを握って普通選挙実現への道を切り開いた。その意味において、革新倶楽部は大正デモクラシー期のダイナミックな政治状況を象徴する重要な存在であったと評価できる。