護憲三派内閣

第二次護憲運動の総選挙勝利を受けて成立した、加藤高明(憲政会)、高橋是清(政友会)、犬養毅(革新倶楽部)らによる連立内閣を何というか?
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重要度
★★

護憲三派内閣 (ごけんさんぱないかく)

1924〜1925年

【概説】
1924(大正13)年の第15回総選挙における護憲三派の圧勝を受け、憲政会総裁の加藤高明を首相として成立した連立政党内閣。憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の3党の党首らが入閣し、「大正デモクラシー」の最盛期を現出した。普通選挙法の制定や幣原協調外交の推進など画期的な政策を進めたが、同時に治安維持法を制定して社会主義運動の台頭を抑え込もうとした。

第二次護憲運動と加藤高明内閣の誕生

1924年1月、貴族院を背景とした超然内閣である清浦奎吾内閣が組織されると、これに対する世論の批判が急速に高まった。これを受けて、憲政会(加藤高明総裁)、立憲政友会(高橋是清総裁)、革新倶楽部(犬養毅代表)の3政党は、政党政治の確立と普選断行を掲げて第二次護憲運動(「「特権内閣を打倒して政党内閣を樹立する」をスローガンとする運動)を展開した。

同年5月に行われた第15回衆議院議員総選挙において、これら「護憲三派」は過半数を大きく超える286議席を獲得して大勝した。この結果、清浦内閣は退陣に追い込まれ、衆議院第一党となった憲政会の加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立した。内閣には、高橋是清が農商務相、犬養毅が逓信相として入閣し、実力派の三派党首が顔を揃える本格的な政党内閣となった。これにより、以後1932年の五・一五事件に至るまでの「憲政の常道」(衆議院の多数党が内閣を組織する慣例)が確立されることとなった。

「アメとムチ」の国内政策:普通選挙法と治安維持法

護憲三派内閣が取り組んだ最大の国内課題が、納税資格による制限選挙を撤廃する普通選挙法の制定であった。1925(大正14)年、満25歳以上の全ての男子に選挙権を認める同法が成立し、有権者数は従来の約4倍(約300万人から約1240万人)へと激増した。これは民主主義運動(大正デモクラシー)の大きな成果であった。

しかし、選挙権の拡大による無産政党や社会主義運動の急速な台頭を恐れた枢密院や保守派への妥協策として、内閣は同時に治安維持法を制定した。これは「国体(天皇制)の変革」や「私有財産制度の否認」を目的とする結社や運動を厳しく取り締まるものであった。この普通選挙法(アメ)と治安維持法(ムチ)のセットでの導入は、その後の日本の治安政策や社会運動に極めて深刻な影響を及ぼすこととなった。

幣原協調外交と連立の終焉

外交面では、外相に起用された幣原喜重郎による協調外交(幣原外交)が展開された。幣原は、ワシントン体制を維持しつつ、中国の内政への不干渉と経済的進出を進める方針をとった。さらに1925年1月には、ソ連との間で日ソ基本条約を締結して国交を樹立した。この日ソ国交樹立は治安維持法の制定を急がせる大きな要因の一つともなった。

このように多大な業績を挙げた護憲三派内閣であったが、共通の敵(超然内閣)や普通選挙の実現という共通目標を失うと、次第に三派間の政策的対立が表面化した。特に憲政会と立憲政友会の間で、税制改革や地方財政をめぐる意見の不一致が深刻化した。1925年7月、政友会閣僚の辞職にともない閣内不一致となり、加藤高明首相は一度内閣総辞職の形式をとった。その後、革新倶楽部が立憲政友会に合同したこともあり、加藤は憲政会単独で第2次加藤内閣を組閣した。これにより、歴史的な役割を果たした護憲三派による連立政権は終焉を迎えた。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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