国体の変革
【概説】
1925年(大正14年)に制定された治安維持法において、私有財産制度の否認とともに取り締まりの対象とされた、天皇主権の国家体制を根本から覆そうとする目的や行為のこと。ロシア革命の波及による共産主義思想の流入を警戒して法定された概念であり、昭和期にかけて思想・言論統制の最大の根拠として機能した。
大日本帝国憲法下の「国体」概念
そもそも「国体」とは、広義には国家の形態や体制を指すが、近代日本においては、大日本帝国憲法第1条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という条文に裏打ちされた、天皇主権の国家体制を意味した。明治政府は、欧米列強に対抗しうる近代国家を建設する過程で、天皇を中心とする家族国家観を道徳的・政治的イデオロギーとして国民に浸透させた。したがって「国体」は、単なる法制度の枠組みを超えて、国家の神聖不可侵なアイデンティティとして位置づけられていたのである。
治安維持法制定と「国体の変革」の法定化
大正時代に入ると、大正デモクラシーと呼ばれる自由主義的な風潮が広まる一方で、第一次世界大戦期の経済変動や1917年のロシア革命の影響により、日本国内でも労働運動や小作争議が激化し、社会主義や共産主義、無政府主義(アナキズム)などの思想が知識人や労働者の間に浸透し始めた。とくに、天皇制の打倒とプロレタリア独裁を掲げる国際共産主義運動(コミンテルン)の波及は、支配層に強い危機感を抱かせた。
これに対応するため、加藤高明内閣は1925年(大正14年)、普通選挙法の制定によって有権者が拡大することへの「防共の防波堤」として、治安維持法を制定した。同法第1条では、「国体ノ変革」または「私有財産制度ノ否認」を目的とする結社を組織し、またはそれに加入する行為を厳格に処罰することと定めた。ここでいう「国体の変革」とは、具体的には共産主義者らによる天皇制打倒の革命運動を念頭に置いたものであった。
法改正による厳罰化と解釈の拡大適用
治安維持法制定当初は最高刑が懲役10年であったが、非合法組織であった日本共産党の活動が活発化すると、政府は弾圧の度合いを強めていく。1928年(昭和3年)の三・一五事件を機に、田中義一内閣は緊急勅令によって治安維持法を改悪し、「国体の変革」を目的とする結社の主謀者に対する最高刑を死刑に引き上げた(「私有財産制度の否認」については死刑の対象外とされた)。これにより、「国体」の護持は絶対的な国是として法的に固定化された。
さらに恐ろしいのは、「国体の変革」という文言の曖昧さが利用され、取り締まりの対象が無限に拡大適用されていったことである。特別高等警察(特高)や思想検事による弾圧は、共産主義者にとどまらず、反戦運動、新宗教団体(大本など)、さらには天皇機関説などの自由主義的な学説にまで及んだ。政府や軍部の方針に異を唱える言動は、すべて「国体を危うくするもの」としてレッテルを貼られ、徹底的に排除されるようになったのである。
思想統制の帰結と戦後
「国体の変革」という罪状は、国家が公認する体制やイデオロギーに反する者を社会から抹殺するための「マジックワード」として猛威を振るった。この徹底した思想・言論統制により、日本社会から多様な価値観や批判精神は失われ、国家総動員体制のもとで破滅的なアジア太平洋戦争へと突き進む大きな要因となった。
1945年(昭和20年)の敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が発出した「人権指令(政治的、公民的及宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書)」によって治安維持法は廃止され、「国体の変革」という罪も消滅した。その後、日本国憲法の制定により国民主権が確立されたことで、戦前・戦中を縛り続けた法的な「国体」概念は完全に解体されることとなった。