私有財産制度の否認
【概説】
治安維持法において「国体の変革」とともに取り締まりの対象とされた、共産主義や無政府主義が目指す資本主義体制(財産権)の否定。1925年に同法が制定されて以降、社会主義運動や労働運動を弾圧するための強力な法的根拠となった。
治安維持法制定の背景と明文化
1925年(大正14年)、護憲三派からなる加藤高明内閣のもとで制定された治安維持法の第一条には、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ……」と明記された。この「私有財産制度の否認」とは、マルクス主義などの社会主義思想が掲げる「生産手段の私有の廃止」を指している。当時の日本では大正デモクラシーの風潮の中で普通選挙法が成立したが、政府は同時に社会運動の過激化を強く懸念しており、治安維持法は事実上の「アメとムチ」の「ムチ」として制定されたのである。
ロシア革命の衝撃と資本主義体制の防衛
なぜ当時の政府が「私有財産制度の否認」を法律で明記し、厳しく取り締まる必要があったのか。最大の要因は、1917年のロシア革命の成功と、それに続く世界的な共産主義運動の高揚である。日本国内でも第一次世界大戦後のインフレに伴う米騒動(1918年)を契機に、労働運動や小作争議が激化し、1922年にはコミンテルンの日本支部として非合法の日本共産党が結成されていた。
さらに1925年には日ソ基本条約が結ばれ、ソビエト連邦との国交が樹立された。政府および支配階級である資本家・地主層は、国交樹立に伴って共産主義思想の流入が加速し、資本主義体制の基盤である私有財産制が覆されることを強烈に恐れ、体制防衛のためにこれを法的に禁じたのである。
「国体の変革」との差異と法改正
治安維持法における二大要件である「国体の変革」(天皇制の打倒)と「私有財産制度の否認」(資本主義の打倒)は、当初は同列に扱われ、ともに最高刑は懲役または禁錮10年であった。しかし、1928年(昭和3年)の三・一五事件を機に、田中義一内閣が緊急勅令によって治安維持法を改正した際、両者の扱いに明確な差が設けられた。
この改正により、「国体の変革」を目的とする結社の主謀者に対する最高刑が死刑に引き上げられたのに対し、「私有財産制度の否認」を目的とする場合は従来の最高刑10年のままとされた。これは、日本の支配層にとって天皇を頂点とする国家体制(国体)の維持が何よりも神聖かつ最優先されるべきものであり、経済体制である私有財産制度の保護はその次位に置かれたことを意味している。
社会運動への弾圧と歴史的意義
最高刑に差が設けられたとはいえ、「私有財産制度の否認」という条項は、広範な社会運動を弾圧するための網の目として猛威を振るった。純粋な共産主義者だけでなく、過激な労働組合や農民組合、果ては急進的な自由主義者に対しても、「私有財産制度を脅かす存在」として特別高等警察(特高)などによる拡大解釈のもとで適用されていった。
結果として、日本の資本主義体制の矛盾を根本から批判・是正しようとする動きは封殺され、労働者の権利保護や社会構造の改革は大きく後退することとなった。「私有財産制度の否認」を罪に問うた治安維持法の存在は、近代日本が直面した格差や労働問題に対する国家の強権的な対応を象徴する歴史的転換点であったと言える。