神仏分離
【概説】
明治政府が神道を国教とするため、古代以来一体化していた神道と仏教を明確に切り離そうとした宗教政策。1868年(慶応4年)に発布された一連の「神仏判然令」によって本格的に推進された。この政策は全国的な廃仏毀釈運動を引き起こし、日本の伝統的な宗教社会に多大な変革をもたらすこととなった。
神仏分離令の発布とその目的
1868年(慶応4年)3月以降、発足直後の明治政府は神仏判然令(神仏分離令)と呼ばれる一連の布告や達を相次いで発布した。その最大の目的は、天皇を中心とする近代的な中央集権国家を樹立するため、天皇の権威を裏付ける神道を国教化することにあった。新政府は「王政復古」と「祭政一致」の理念を掲げ、古代律令制における神祇官を復興させるなど、国家の精神的支柱として神道を位置づけようと試みたのである。そのためには、前近代の複雑な宗教的権威を整理し、仏教から独立した「純粋な神道」を創出する必要があった。
神仏習合の歴史的転換
日本では古代以来、日本固有の神祇信仰と外来の仏教が融合する神仏習合が一般的な宗教形態として定着していた。神社の境内に神宮寺が建てられ、神前で読経が行われるだけでなく、「権現」や「牛頭天王」「八幡大菩薩」のように仏教的な名称を持つ神や、仏像を御神体とする神社も広く存在していた。神仏判然令は、こうした千年以上続いた宗教的融合を否定し、仏教語を神号とすることの禁止、仏像の御神体としての使用禁止、さらに神社に奉仕する僧侶(社僧)への還俗を命じた。これは日本の宗教史における劇的な転換点であった。
廃仏毀釈運動の激化
政府の当初の意図はあくまで「神と仏の分離」であったが、この法令は結果として、仏教に対する激しい排斥運動である廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を誘発することとなった。江戸時代を通じて寺請制度の庇護のもと特権的な地位にあった仏教勢力に対する民衆の反発や、平田派国学の影響を受けた神職たちの復古的排外主義が結びつき、全国各地で寺院の破壊、仏像や経巻の焼却、僧侶への迫害が相次いだ。特に薩摩藩や水戸藩、松本藩などでは徹底した仏教弾圧が行われ、興福寺(奈良)のような大寺院ですら荒廃の危機に瀕するなど、多数の貴重な文化財が失われる歴史的悲劇を招いた。
国家神道への道程と仏教界の覚醒
神仏分離によって神道界は優位に立ったが、政府が企図した神道の完全な国教化は必ずしも順調には進まなかった。1870年(明治3年)の大教宣布の詔に基づいて神道を中心とした国民教化が図られたものの、教義の未熟さや民衆の仏教信仰の根強さから挫折を余儀なくされる。その後、政府は「神社は宗教にあらず」とする論理へと方針を転換し、事実上の国家祭祀として神道を特別に保護・統制する国家神道の体制を築いていくことになる。一方で、廃仏毀釈により壊滅的な打撃を受けた仏教界は、浄土真宗の島地黙雷らに代表されるように、近代的な「信教の自由」を主張して国家からの自立を模索し始めた。結果的に神仏分離は、日本の仏教が古い特権にすがる体制を脱却し、近代社会において自らの存在意義を問い直す契機ともなったのである。