無声映画
【概説】
音声やセリフの音響トラックが映像と同調(シンクロ)していない初期の映画。日本では「活動写真」と呼ばれ、スクリーン横に立つ活動弁士の解説と、楽団による生演奏を伴って上映される独自の文化が定着した。
日本独自の「活動弁士」と無声映画の受容
19世紀末に欧米から映画技術(活動写真)が導入された際、日本では独自の受容スタイルが生まれた。西洋では主に投影スクリーンの間に挟まれる「中間字幕」によってストーリーを補うのが一般的であったのに対し、日本では活動弁士(弁士・活弁)と呼ばれる解説者が、登場人物のセリフや状況設定を臨場感たっぷりに語りかける手法が主流となった。
この弁士の語りに、和洋楽器を混成した楽団の生演奏が加わることで、無声映画は単なる「音のない映像」ではなく、高度なライブエンターテインメントへと昇華された。人気弁士は映画スター以上の人気を誇り、観客は「どの映画を見るか」以上に「誰の弁士で見るか」を重視して劇場へと足を運んだ。
大正デモクラシーと大衆娯楽への発展
大正時代に入ると、第一次世界大戦後の好景気や都市化の進展を背景に、都市中間層や労働者を中心とする大衆社会が形成された。こうした中で無声映画は、東京の浅草をはじめとする全国の興行街で、最も人気のある大衆娯楽として爆発的に普及した。
この時期には、従来の歌舞伎的な手法に依拠した「旧劇(のちの時代劇)」に加えて、現代の社会や市民生活を描く「新劇・現代劇」も盛んに製作されるようになる。尾上松之助のようなスター俳優の活躍や、松竹・日活といった大手映画会社の設立により、映画は一時の見世物から、大正文化(モダン文化)を代表する一大産業へと成長を遂げた。
トーキーへの移行と無声映画の終焉
1920年代末、アメリカを中心に映像と音声が同期した「トーキー(発声映画)」が開発され、日本にも流入し始める。1931年(昭和6年)には日本初の本格的トーキー映画『マダムと女房』(五所平之助監督)が公開され、大ヒットを記録した。
このトーキーの急速な普及に伴い、1930年代半ばまでに日本の無声映画は姿を消していくこととなった。この技術革新は、映画の表現力を飛躍的に向上させた一方で、それまで日本の映画界を支えていた数千人におよぶ活動弁士や楽士たちの失業を招き、各地の映画館で激しい解雇反対の労働争議が巻き起こる原因ともなった。