新しき村
【概説】
大正デモクラシー期において、作家の武者小路実篤らが宮崎県に建設した理想主義的な共同社会。白樺派の人道主義思想を背景に、階級対立のない、労働と芸術が調和したユートピアの実現を目指した共同体である。
白樺派の思想と「新しき村」の誕生
大正時代、文学界では学習院出身の若き知識人たちを中心に「白樺」が創刊され、個人の個性や生命力を肯定する人道主義(白樺派思想)が台頭した。その中心人物であった武者小路実篤は、ロシアの文豪トルストイの農本主義的思想に強い影響を受け、既存の資本主義社会における不平等や階級対立、労働の疎外を批判するようになった。
実篤は、誰もが他人の犠牲の上に生活するのではなく、自ら義務づけられた労働に従事し、同時に自己の個性を自由に発揮できる社会の実現を夢見た。この構想を具現化すべく、1918(大正7)年、実篤とその賛同者たちは宮崎県児湯郡木城村(現在の木城町)の山林を開墾し、「新しき村」を創設した。これは大正デモクラシー期における社会運動・思想運動の一つの到達点であった。
「新しき村」の共同生活と挫折
新しき村の根本理念は、1918年に発表された「新しき村の精神」に示されている。そこでは「自己の個性を全うすること」と「他人の個性を尊重すること」が掲げられ、すべての村員が平等に「半日農業、半日芸術」の生活を送ることを理想とした。村員は午前中に農作業などの肉体労働を行い、午後は読書や絵画、執筆活動などの精神的創作活動に充てた。
しかし、実際の村の運営は困難を極めた。未開地の開墾は厳しく、農業経験のない都市知識人主体の村員たちによる自給自足体制は容易には確立しなかった。結果として、村の財政は武者小路実篤の原稿料や、支援者からの寄付に大きく依存せざるを得ず、理想と現実の乖離という課題を常に抱えていた。
埼玉県への移転と近代日本における歴史的意義
1938(昭和13)年、宮崎県の村の大部分がダム建設(耳川の水力発電所計画)によって水没することになり、活動の拠点は埼玉県入間郡毛呂山町へと移された(埼玉県側の村は「東の村」、宮崎県側は「日向の村」と呼ばれる)。実篤自身はその後、村を離れて東京で暮らすことが多かったが、村の精神的指導者であり続けた。
新しき村の試みは、同時期に進行していた社会主義運動や無政府主義(アナーキズム)運動のような政治的権力奪取による社会変革ではなく、個人の内面的自覚と自発的な協同組織によって社会を革新しようとした点に特徴がある。政治運動としては限界があったものの、近代日本の知識人が資本主義の限界に対して提示した、純粋な人道主義的オルタナティブ(代替案)の実践例として、日本思想史において独自の光彩を放っている。なお、この「新しき村」は、形態を変えながら現在もなお存続している。