谷崎潤一郎
【概説】
明治末期から昭和戦後にかけて活躍した近代日本文学を代表する小説家であり、耽美派(新浪漫派)の大巨星。
処女作『刺青』で文壇に登場し、『痴人の愛』などで人間の倒錯した美の追求やマゾヒズムの世界を圧倒的な筆力で描き出した。
のに関東大震災を機に関西へ移住してからは日本の伝統美や古典への傾倒を深め、『春琴抄』や『細雪』などの傑作を遺した。
反自然主義文学の台頭とデビュー
明治時代後期、日本の文壇では現実の暗部や人間の醜悪さをありのままに描写する自然主義文学が主流を占めていた。しかし、明治末期から大正時代に入ると、その偏重に対する反動として、自己の理想や美の追求を第一とする反自然主義の思潮が台頭した。その中で、道徳や倫理よりも「美」そのものに最高の価値を置く芸術至上主義的な文学が耽美派(たんびは)である。
東京の日本橋に生まれた谷崎潤一郎は、東京帝国大学国文科を中退後、1910年(明治43年)に同人誌『新思潮』を創刊し、処女作となる『刺青』(しせい)を発表した。この作品における、女性の肌に巨大な女郎蜘蛛を彫り込むという官能的かつ悪魔的な美の世界は、当時の耽美派の先駆者であった永井荷風に激賞された。荷風の強力な後押しにより、谷崎は華々しく文壇へのデビューを果たしたのである。
エロティシズムの追求と大正モダニズム
大正時代に入ると、大衆文化の発展や西洋文化の流入を背景とした都市的なモダニズムが花開いた。この時期の谷崎は、西洋への憧憬やフェティシズム、あるいは女性に支配されることに悦びを見出すマゾヒズム的な主題を徹底して掘り下げた。いわゆる「悪魔主義」と呼ばれる初期から中期の作風である。
その代表作が、1924年(大正13年)に発表された『痴人の愛』である。西洋風の容姿を持つ少女ナオミに翻弄され、自ら身を滅ぼしていく男の姿を描いたこの作品は、大正期の自由で退廃的な空気(エログロナンセンスの先駆け)を反映しており、当時の社会に大きな衝撃を与えた。「ナオミズム」という流行語を生み出すほど、谷崎の描く倒錯した美の世界は当時の読者を熱狂させた。
関東大震災と上方文化・古典への回帰
1923年(大正12年)の関東大震災は、谷崎の文学的キャリアにおける最大の転換点となった。被災した谷崎は、近代化と西洋化によって変貌し、さらに震災で破壊された東京を見限り、関西(京阪神)へと移住した。これを機に、彼の関心は西洋的なモダニズムから、日本古来の伝統美や上方文化へと劇的に回帰していく。
この関西移住後の充実期には、盲目の三味線奏者である女性への究極の献身を描いた『春琴抄』(しゅんきんしょう)や、日本の伝統的な薄暗さの中に宿る美学を論じた随筆『陰翳礼讃』(いんえいらいさん)などを発表した。これらの作品を通して、谷崎は単なる官能小説家にとどまらず、日本文学が持つ独自の美意識を極限まで洗練させることに成功した。
戦時下の『細雪』と近代文学における意義
昭和時代に入り、軍部が台頭して表現の自由が著しく制限される中においても、谷崎は時流に迎合することなく自己の芸術を貫いた。太平洋戦争中には、大阪の旧家を舞台に四姉妹の没落と日常を流麗な関西弁で描いた『細雪』(ささめゆき)の執筆を進めたが、軍部から「戦時下にふさわしくない軟弱な内容である」として発禁処分を受けた。しかし谷崎は屈することなく私家版を印刷し、戦後に全編を完成させ、日本文学史に燦然と輝く大作を世に送り出した。
また、長年にわたり『源氏物語』の現代語訳(谷崎源氏)に取り組み、古典文学の普及にも多大な貢献をした。政治やイデオロギーから距離を置き、生涯を通じて「人間の業」と「美」のみを圧倒的な筆力で追求し続けた谷崎潤一郎の存在は、白樺派やプロレタリア文学などが乱立した大正・昭和の文学史において、他に類を見ない孤高の巨星として位置づけられている。