腕くらべ (うでくらべ)
【概説】
大正期を代表する作家・永井荷風の長編小説。新橋の花街を舞台に、芸者たちの意地や愛憎の駆け引きを江戸情緒豊かに美しく描いた耽美主義文学の傑作。近代化の中で急速に失われつつあった江戸の残り香を、当時の花柳界のリアルな生態とともに描き出している。
大正期花柳界のリアリズムと世相の描写
『腕くらべ』は、1916(大正5)年から翌年にかけて荷風が主宰していた文芸誌『三田文学』に連載され、1918(大正7)年に私家版として単行本が刊行された。舞台となる新橋花街は、当時の政財界の要人が出入りする社交の場であり、流行の発信地でもあった。主人公の芸者・駒代が、かつてのパトロンである吉岡や、新興の相場師、若き歌舞伎役者らとの間で翻弄されながらも、自らの意地を通して生きる姿が活写されている。
荷風は、資本主義の発達に伴い変質していく大正期の人間関係を、花街という金と欲が渦巻く限定された空間を通じて冷徹に見つめた。本作に描かれた芸者やパトロンたちの複雑な駆け引きは、単なる色恋沙汰にとどまらず、成金が跋扈する大正バブル期の世相や、利害関係で結ばれた近代社会の縮図としての側面も持っている。
永井荷風の「反近代」思想と江戸情趣の継承
著者である永井荷風は、1910(明治43)年に起きた大逆事件に強い衝撃を受け、国家権力に対する深い不信感を抱くようになった。以後、荷風は西洋化を急ぐ明治・大正政府の近代化政策に反発し、あえて日陰の存在とされた花街や私娼街、そして消えゆく江戸の古い文化に沈潜していく。この「戯作者(げさくしゃ)」としての自意識と、独自の耽美主義(反自然主義)的な姿勢が最も美しく結実した作品の一つが『腕くらべ』である。
本作において、荷風は近代的な合理主義や道徳観を排し、旧悪や退廃の中に潜む美、そして日本の伝統的な情緒の保存を試みた。これは、同時期に自然主義文学が主流であった日本の文学界に対する、荷風なりの批評性の表現であり、大正期における重要な文化史的潮流(江戸趣味の復活)を示すものとして高く評価されている。