日露戦争
【概説】
1904(明治37)年から1905年にかけて、満州と韓国の支配権をめぐって勃発した日本とロシアの帝国主義戦争。日本がアメリカの調停により辛くも勝利を収め、ポーツマス条約によって朝鮮半島から満州にかけての優越的な権益を確保した。日本の国際的地位を飛躍的に高めるとともに、アジア諸国の民族運動を刺激した一方で、のちの大陸侵攻への道を開く歴史的な転換点となった。
日露開戦への道程
日清戦争後、三国干渉によって日本が手放した遼東半島をロシアが租借し、さらに義和団事件を機に満州へ大軍を駐留させて事実上の占領状態を続けた。ロシアの南下政策は、韓国(大韓帝国)を自国の絶対的な勢力圏と見なす日本にとって重大な脅威であった。日本国内では、ロシアとの開戦を主張する対露強硬論と、伊藤博文らによる外交的解決(日露協商論)を目指す動きが交錯したが、1902年に結ばれた日英同盟を背景に、日本政府は主戦論へと傾いた。ロシアとの交渉(満韓交換論)が暗礁に乗り上げると、1904年2月、日本は御前会議で国交断絶と開戦を決定し、旅順のロシア艦隊を奇襲攻撃して宣戦布告を行った。
戦局の推移と両国の内情
戦闘は主に満州南部と周辺海域で行われた。日本軍は連戦連勝を重ねたものの、ロシアの強固な要塞戦術や近代兵器の前に甚大な犠牲を払った。特に乃木希典率いる第三軍による旅順攻囲戦では、数万の死傷者を出しながらも1905年1月にようやく陥落させた。同年3月の奉天会戦では、両軍合わせて数十万の兵力が激突し、日本軍が辛勝を収めた。さらに5月の日本海海戦において、東郷平八郎率いる連合艦隊が、ヨーロッパから回航されてきたロシアのバルチック艦隊を事実上壊滅させるという歴史的勝利を挙げた。
しかし、日本の国力はすでに限界に達しており、戦費の調達や兵器・弾薬の枯渇、兵員の消耗が深刻化していた。一方のロシアも、度重なる敗戦に加えて1905年1月に発生した「血の日曜日事件」を契機とする第一次ロシア革命が勃発して国内情勢が極度に悪化しており、両国ともにこれ以上の戦争継続が困難な状況に陥っていた。
ポーツマス条約と民衆の反発
戦力の限界を悟った日本政府は、日本海海戦の直後にアメリカ合衆国のセオドア=ローズヴェルト大統領に講和の斡旋を依頼した。1905年8月よりアメリカの軍港ポーツマスにおいて講和会議が開かれ、日本全権の小村寿太郎とロシア全権のウィッテが激しい交渉を行った。ロシア側は「敗戦」を認めることを拒み、賠償金の支払いや領土割譲を強硬に拒否した。しかし、最終的には同年9月にポーツマス条約が調印された。
これにより、ロシアは日本の韓国に対する指導・保護の権利を承認し、旅順・大連の租借権および長春以南の鉄道(のちの南満州鉄道)の権益を日本へ譲渡、さらに北緯50度以南の樺太(サハリン)を割譲した。しかし賠償金は一切得られず、過重な増税と多大な犠牲を耐え忍んできた日本の民衆は激怒し、調印直後に日比谷焼打事件をはじめとする激しい暴動を引き起こした。これは、日本の民衆が政治意識を高め、大正デモクラシーへと繋がる民衆運動の幕開けでもあった。
世界史的意義と帝国主義的拡大
日露戦争は、アジアの新興国である日本がヨーロッパの伝統的大国ロシアを打ち破った出来事として、世界中に大きな衝撃を与えた。この勝利は、オスマン帝国やイラン、インド、清など、欧米列強の植民地支配や圧迫に苦しんでいたアジア・アフリカの諸民族に独立の希望を与え、民族主義運動を大いに刺激した。
一方で、日本自身もこの戦争を通じて完全な帝国主義列強の一員として振る舞うようになった。戦後、日本は韓国の保護国化(のちの1910年に韓国併合)を強行し、獲得した満州の権益を足掛かりに大陸進出を本格化させていった。また、満州の門戸開放を唱えるアメリカとの間で利害の対立が生じるようになり、これがのちの太平洋戦争へと至る遠因ともなった。日露戦争は、日本の国際的地位を確立した栄光の頂点であると同時に、日本を泥沼の対外拡張路線へと引きずり込む分水嶺ともなったのである。