ウィッテ
【概説】
19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した帝政ロシアの政治家・外交官。日露戦争の講和交渉(ポーツマス会議)においてロシア側の全権代表を務め、日本の要求を大幅に退ける老獪な外交手腕を見せた人物である。
ロシアの近代化と極東政策の展開
セルゲイ・ウィッテは、財務大臣としてロシアの資本主義化と工業化を強力に推し進めた人物である。彼はフランスなどからの外資を積極的に導入して金本位制への移行を達成し、ロシア国内の産業振興に努めた。特に彼の最大の功績とされるのが、ヨーロッパ・ロシアと極東を結ぶシベリア鉄道の建設主導である。
日清戦争後の三国干渉を主導したウィッテは、その代償として清から東清鉄道の敷設権を獲得し、満洲におけるロシアの足場を固めた。しかし、日本の急速な軍備拡張を警戒した彼は、財政的な観点からも日本との全面衝突を避けるべきだとする「協調派(穏健派)」の立場をとった。最終的にベゾブラーゾフらの対日強硬派(宮廷貴族グループ)に排除される形で影響力を失い、ロシアは日露戦争へと突入することとなった。
ポーツマス会議における老獪な外交手腕
戦争の長期化によりロシア国内で第1次ロシア革命が勃発すると、退嬰的な状況を打破すべく、ウィッテは皇帝ニコライ2世から全権代表に起用され、アメリカで行われたポーツマス会議に臨んだ。当時の日本は連戦連勝の勢いにあったが、実際には戦費の枯渇と兵力の限界に達しており、戦争の継続は不可能な状態であった。ウィッテはこの日本の足元と、米国内の世論の動向を冷徹に見抜いていた。
日本側全権の小村寿太郎に対し、ウィッテは「ロシアは敗戦国ではない」という強硬な態度を崩さず、「一歩も譲らず、一ルーブルも払わず」という方針を貫いた。特に日本が強く要求した賠償金の支払いを完全に拒否し、領土割譲についても頑なに拒んだ。最終的に、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの調停により、樺太の南半分を日本に割譲することで妥協したものの、賠償金は一切支払わないという、ロシアにとって極めて有利な条件で講和条約を結ぶことに成功した。
ポーツマス条約の影響とウィッテのその後
ウィッテの執拗な交渉の結果、日本は莫大な戦費に見合う賠償金を得ることができず、講和条約の内容に不満を抱いた群衆による日比谷焼打事件を引き起こす一因となった。日本にとってウィッテは、軍事的な勝利を外交で相殺した「手強い障壁」であったといえる。
一方、ロシア帰国後のウィッテは、講和の功績により伯爵の爵位を授けられた(樺太の半分を割譲したため「樺太半伯」と揶揄されることもあった)。その後、首相(大臣会議議長)に就任して「十月詔書」の起草に関わり、国会の開設や市民的自由の付与などの改革を推進したが、皇帝ニコライ2世の不信を買い、翌年には更迭された。第一次世界大戦の開戦に強く反対するなか、1915年に病没した。