玉虫厨子

重要度
★★

玉虫厨子 (たまむしのずし)

7世紀中頃

【概説】
法隆寺に伝来する、飛鳥時代を代表する仏教工芸品。上部の宮殿(仏堂)と下部の須弥座(台座)から構成され、装飾に本物のヤマトタマムシの羽が使用されている。透彫の金具や、側面に描かれた「捨身飼虎図」などの仏画は、当時の美術・建築様式および仏教信仰の受容過程を伝える極めて貴重な史料である。

飛鳥建築のミニチュアとしての構造と装飾技法

玉虫厨子は、高さ約2.3メートルの木製黒漆塗りの厨子(仏像などを安置する戸棚の一種)である。全体は、仏像を安置する上部の宮殿(くうてん)部と、それを支える下部の須弥座(しゅみざ)部の二重構造となっている。この宮殿部は、現存する飛鳥時代の木造建築が極めて少ないなか、当時の宮殿や仏堂の建築様式を忠実に再現した「ミニチュア」として極めて高い史料価値を持つ。屋根は錣葺(しころぶき)で、宮殿の柱や組物、あるいは軒の出の深い構造などは、法隆寺金堂などの飛鳥建築と共通する特徴を示している。

さらに、この厨子の最大の美術的特徴は、各部を飾る透彫(すかしぼり)の銅製錺金具(かざりかなぐ)の下に、数千枚に及ぶヤマトタマムシの美しい羽が敷き詰められていた点にある。これにより、緑色に妖しく輝く荘厳な視覚効果が生み出されていた。金具に施された「忍冬唐草文(にんとうからくさもん)」などの文様は、ササン朝ペルシャや中国(南北朝・隋)を経由して伝播したヘレニズム文化の影響を示しており、飛鳥文化が持つ国際的な性格を現代に伝えている。

「捨身飼虎図」にみる仏教絵画の源流と異時同図法

須弥座および宮殿の扉や周囲の板壁には、漆や蜜陀僧(一酸化鉛)を溶いた油絵の具(密陀絵)などを用いて、仏教の経典に基づく様々な絵画が描かれている。これらは、現存する日本最古の絵画資料の一つである。なかでも須弥座の右側面に描かれた「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」は著名である。

「捨身飼虎図」は、釈迦の前世(薩埵太子)が、飢えた虎の親子を救うために自らの肉体を崖から投げ打って与えるという『金光明経』の本生譚(ジャータカ)を描いたものである。この絵画の画期的な点は、太子が衣を脱いで木に掛ける場面、崖から身を投じる場面、そして谷底で虎に喰われる場面という、時間的に異なる3つの出来事を1枚の画面の中に描く「異時同図法(いじどうずほう)」が用いられていることである。この技法は、後の平安時代に発展する「絵巻物」の表現手法の先駆をなすものであり、日本の視覚表現史において極めて重要な意味を持っている。

飛鳥時代における仏教受容と歴史的意義

玉虫厨子が製作されたとされる7世紀中頃(飛鳥時代後期)は、日本に仏教が伝来し、蘇我氏らの崇仏派が物部氏らの排仏派を退けて、仏教が国家や豪族の間に定着し始めた時期にあたる。法隆寺(斑鳩寺)は、聖徳太子(厩戸王)が建立したとされる寺院であるが、670年に全焼したという『日本書紀』の記述を巡って「再建・非再建論争」が存在した。玉虫厨子はその様式から、創建時の法隆寺から伝来した数少ない飛鳥時代の本尊守護具、あるいは再建期の法隆寺に新たに納められた一級の寄進物と考えられており、いずれにしても当時の高い技術力と深い信仰心を示す象徴的遺物である。

このように玉虫厨子は、単なる工芸品にとどまらず、飛鳥時代の建築技術、漆芸や金属加工の装飾技術、外来の仏教美術の図像学、そして当時の人々が仏教思想(特に自己犠牲や慈悲の精神)をどのように受容していたかを知るための、多面的な歴史的価値を内包する記念碑的作品なのである。

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奈良時代の信仰の深さを物語る百万塔と陀羅尼経の精緻な意匠を記録した、歴史的価値の高い至宝の図録。

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日本史一問一答(ランダム)

Q. 韓鍛冶部(からかぬちべ)などの渡来人が高度な技術を日本に伝えた、鉄を熱して叩き、武器や農具などを製造する技術を何というか?
Q. 古墳時代、渡来人などを中心に編成され、鉄器製造や機織り、文筆などの専門技術でヤマト政権に奉仕した部民(職業集団)を何というか?
Q. 律令国家が役人を育成するため、中央の都に設置し、主に五位以上の貴族の子弟が入学を許された教育機関は何か?