関東州
【概説】
日露戦争後のポーツマス条約により、日本がロシアから引き継いだ遼東半島南部の租借地に対する呼称。旅順や大連を含み、1945年の敗戦に至るまで、日本の大陸進出および満州経営の最重要拠点として機能した。
関東州の成立と歴史的背景
日清戦争後の下関条約において、日本は一度清国から遼東半島を割譲されたものの、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉(1895年)によって返還を余儀なくされた。その後、1898年にロシアが清国に圧力をかけて遼東半島南部(旅順・大連)を25年間の期限で租借し、この地域を「関東州」と名付けた。名称の「関東」とは、万里の長城の東端にある要衝・山海関から見て東側にある地域を意味している。
1904年から始まった日露戦争において、日本は多数の犠牲を払いながら旅順要塞を陥落させ、1905年のポーツマス条約によってロシアが持っていた関東州の租借権および長春・旅順間の鉄道(後の南満州鉄道)の権益を獲得した。同年、清国とも満州に関する条約(北京条約)を結んでこれを承認させ、日本は大陸における念願の橋頭堡を手に入れたのである。
統治機構の変遷と「関東軍」の誕生
日本の領有当初は軍政が敷かれたが、1906年に旅順に関東都督府が設置され、陸軍の将官が軍事と民政の双方を統括する体制が整えられた。しかし、大正デモクラシー期に入ると政党内閣の下で軍民分離の機運が高まり、1919年に制度改正が行われた。
これにより、関東都督府は廃止され、民政を所管する文官トップの関東庁と、軍事および満鉄沿線の警備を専任する関東軍とに分離された。この時に誕生した関東軍は、当初は関東州と満鉄附属地の守備隊に過ぎなかったが、次第に現地で独自の政治的意図を持つようになり、後の柳条湖事件(1931年)から満州事変を引き起こすなど、日本の運命を大きく左右する強大な存在へと変貌していくこととなる。
経済的繁栄と満鉄の結節点
関東州は、日本の「満州経営」の中核を担う地域として急速に開発が進められた。特に中心都市である大連は、満州開発の総括機関である国策会社・南満州鉄道株式会社(満鉄)の本社が置かれ、近代的な港湾施設を持つ国際的な自由貿易港として大発展を遂げた。
満鉄の広大な鉄道路線網を通じて、内陸部で産出された大豆や撫順の石炭などの豊富な資源が大連に集約され、日本本土や世界各地へと輸出された。関東州は単なる軍事拠点にとどまらず、日本の帝国主義的経済拡張における最大の結節点として機能し、多くの日本人移民や企業が進出して都市文化が花開くほどの繁栄を謳歌した。
満州国建国と租借権の終焉
1932年に日本の傀儡国家である満州国が建国されると、関東州の法的地位にも変化が生じた。日本の行政機構は再編され、駐満日本大使、関東軍司令官、関東長官を一人の人物が兼任する「三位一体」の強力な支配体制が確立された。なお、本来の租借期限は1923年までであったが、1915年の対華21カ国要求によって租借期間は99年間(1997年まで)に延長されていた。
しかし、1945年8月のソ連対日参戦に伴い、圧倒的な兵力を持つソ連軍が満州および関東州に侵攻・占領した。日本のポツダム宣言受諾による敗戦に伴い、日本の主権は喪失し、関東州の租借権も完全に消滅した。戦後、この地域は中ソ友好同盟条約に基づき一時的にソ連の管理下に置かれたのち、1955年までに中華人民共和国へと完全に返還された。