小村寿太郎
【概説】
桂太郎内閣などで外務大臣を務め、明治時代後期の日本外交を牽引した外交官・政治家。日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に日本全権として調印したほか、1911年には日米通商航海条約を改正して関税自主権の完全回復を実現し、幕末以来の悲願であった条約改正を完了させた。
外交官への道のりと初期の活躍
日向国飫肥藩(現在の宮崎県)の下級武士の出身である。明治維新後、貢進生として大学南校(東京大学の前身)に学び、第1回文部省留学生としてアメリカのハーバード大学に留学して法律を学んだ。帰国後は司法省を経て外務省に入り、当時の外務大臣であった陸奥宗光に見出されて外交官としての頭角を現した。日清戦争の前夜には清国駐在代理公使として北京に赴任し、開戦に至る困難な外交交渉を担当した。その後、外務次官や駐米公使、駐露公使を歴任し、国際情勢に対する深い洞察力を養っていった。
日英同盟の締結と日露開戦の主導
1901年、第1次桂太郎内閣の外務大臣に就任した。当時、東アジアでは義和団の事件以降、満州を事実上占領し朝鮮半島への野心を見せるロシア帝国への警戒感が高まっていた。小村は、ロシアの南下政策を阻止するためにはイギリスとの提携が不可欠であると判断し、伊藤博文らが模索していた日露協商論(満韓交換論)を退けて同盟締結を強く推進した。その結果、1902年に第1回日英同盟が結ばれ、日本は国際的地位を大きく向上させるとともに、日露開戦に向けた強力な外交的布石を打つこととなった。
ポーツマス講和会議での苦闘と日比谷焼打事件
1904年に日露戦争が開戦すると、日本は軍事的に連戦連勝を重ねたものの、国家財政と兵力は限界に達していた。1905年、アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介によって講和会議が開かれると、小村は全権大使としてアメリカのポーツマスへ赴いた。ロシア全権のウィッテを相手とする交渉は難航を極めたが、日本の国力の疲弊を知り尽くしていた小村は、戦争の継続は不可能と判断し、賠償金の放棄や領土割譲の大幅な譲歩(南樺太のみの割譲)を受け入れるという苦渋の決断を下した。こうして同年9月にポーツマス条約が調印された。
しかし、多大な犠牲を払いながら賠償金を得られなかった講和内容に対して、日本の国内世論は激昂した。講和反対を叫ぶ民衆によって日比谷焼打事件が引き起こされ、小村自身も「売国奴」として激しい非難の的となった。それでも小村は、国家の存亡を救うための現実的な選択を貫き、日本を破局から救い出したのである。
関税自主権の完全回復と条約改正の完了
その後、第2次桂太郎内閣で再び外務大臣に就任した小村は、日本外交の長年の宿願であった条約改正の最終段階に取り組んだ。1894年に陸奥宗光が領事裁判権の撤廃を果たして以降も、依然として関税自主権は回復されておらず、国内産業の保護や関税収入の面で日本は極めて不利な立場に置かれていた。小村は列強との粘り強い交渉を行い、1911年(明治44年)に日米通商航海条約を改正して関税自主権の完全回復を成し遂げた。これに続いて他国とも同様の改正を完了させ、安政の五カ国条約以来、約半世紀にわたって日本を縛り続けてきた不平等条約の撤廃という歴史的偉業を達成した。その直後の同年11月、小村は結核によりこの世を去った。