第2次桂太郎内閣
【概説】
日露戦争後の財政難と社会不安のなかで発足した、桂太郎による2度目の内閣。立憲政友会の西園寺公望と交代で政権を担当した「桂園時代」の中核をなし、国内思想の統制や地方改良運動を進める一方、韓国併合や関税自主権の完全回復を成し遂げて明治国家の総仕上げを行った政権である。
「桂園時代」の推移と「戊申詔書」による国民統合
日露戦争の終結後、日本社会は戦争に伴う重税や戦後不況、さらに労働運動や社会主義思想の台頭などによって大きく動揺していた。第1次西園寺公望内閣がこれらの財政危機や社会不安への対処に苦慮して総辞職すると、1908(明治41)年7月、長州閥の首領である桂太郎が再び政権を組織した。これは、元老や官僚層を背景とする山県有朋系の桂と、衆議院第一党の立憲政友会を率いる西園寺が協調しつつ交互に政権を担当した「桂園時代」の典型的な政権交代であった。
桂内閣は、日露戦後の弛緩した国民思想を引き締め、国家目標へと動員するために、1908年に戊申詔書(ぼしんしょうしょ)を発布した。この詔書は、国民に対して勤倹力行や共同一致を求めるものであった。内閣はこの精神を具現化するため、内務省を中心に地方改良運動を推進する。これは町村の財政基盤を強化し、寄生地主や地方名望家を中心とする秩序を再編することで、地方からの納税と国家体制の安定を図る組織的な国民教化運動であった。
社会主義の弾圧と近代社会政策の導入
一方で、内閣は戦後の社会運動や思想に対して徹底的な排斥姿勢をとった。その頂点が、1910(明治43)年に発覚した大逆事件(幸徳事件)である。明治天皇の暗殺を計画したとして無政府主義者や社会主義者が一斉に検挙され、翌年には幸徳秋水ら12名が死刑に処された。国家権力による過度な弾圧により、これ以後、日本の社会主義運動は長い「冬の時代」を迎えることとなる。
この事件を契機に、内閣は治安維持体制をさらに強化し、1911年には警視庁に思想専門の警察部門である特別高等警察(特高)を設置した。その一方で、過酷な労働環境に置かれた労働者を保護し、社会不安を和らげるという「飴と鞭」の政策として、1911年に日本初の労働法規である工場法を制定した。これにより、近代化に伴う社会問題への対処と強権的な思想統制の双方が整備されることとなった。
対外膨張の完遂と条約改正の達成
第2次桂内閣期は、明治日本が「帝国」としての外交的地位を確立した時期でもある。1910(明治43)年、内閣はイギリスやアメリカなどの列強の黙認を得た上で、軍事力を背景に大韓帝国(韓国)を強制的に合併する韓国併合を強行した。これにより漢城に朝鮮総督府を設置し、寺内正毅を初代総督に据えて武断政治を開始した。
さらに1911年には、外務大臣小村寿太郎の尽力により、アメリカをはじめとする列強との間で新通商条約を締結し、幕末以来の懸案であった関税自主権の完全回復に成功した。すでに1899年に領事裁判権は撤廃されていたため、これによって不平等条約の改正作業がすべて完了した。第2次桂内閣は、国内における強権的な統合体制の確立と、外交上の大いなる成功を背景に、明治国家の究極の目標であった「一等国」への仲間入りを果たす役割を担ったのである。