漸次立憲政体樹立の詔

大阪会議での合意を受け、1875年に天皇の名で出された「元老院や大審院を設け、少しずつ立憲政治へと移行する」と宣言した詔は何か?
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重要度
★★

漸次立憲政体樹立の詔 (ぜんじりっけんせいたいじゅりつのみことのり)

1875年

【概説】
1875年(明治8年)4月、明治天皇の名で出された、段階的に立憲政治の体制を整えていくことを宣言した詔書。同年初頭の大阪会議での合意に基づいて発せられ、国家の近代化に向けた制度改革の端緒となった。

大阪会議と詔書発布の背景

明治政府は、1873年(明治6年)の征韓論争に伴う明治六年の政変によって分裂し、下野した板垣退助らは民撰議院設立建白書を提出して自由民権運動を開始した。さらに、不平士族の反乱や台湾出兵などをめぐり、政府の内外で混乱が続いていた。政権を主導する大久保利通は、体制の立て直しを図るため、同じく下野していた木戸孝允や板垣退助との妥協を模索する。こうして1875年初頭に開催された大阪会議において、将来的に立憲政体へ移行することなどを条件に、木戸・板垣の政府復帰が合意された。この合意を公式に表明し、国民に約束する形で発布されたのが、漸次立憲政体樹立の詔である。

新設された三権分立的な国家機関

本詔書では、急進的な変革を避け、段階的(漸次)に立憲体制を整えていく方針が示され、太政官制の権力集中を是正するための新たな機関が設置された。まず、将来の議会(立法機関)の基礎となる法案起草・審議機関として元老院が設けられた。また、司法の独立と民事・刑事裁判の最高府として大審院(現在の最高裁判所に相当)が創設された。さらに、地方の民情を国政に反映させるため、府県知事や県令を集めて議論を行う地方官会議が開催された。これらは不完全ながらも三権分立を意識したものであり、日本の近代国家形成における重要な第一歩となった。

「アメとムチ」の政策とその限界

本詔書は自由民権派に対する融和策(アメ)としての側面を持っていたが、大久保ら藩閥政府は同時に強力な言論弾圧策(ムチ)も並行して進めた。同年6月、政府は新聞紙条例讒謗律(ざんぼうりつ)を制定し、過激化する政府批判や民権運動への取り締まりを強化した。こうした政府の専制的な姿勢や、元老院などの機関が実質的な権限を持たない官僚的な組織に留まったことに不満を抱いた板垣退助は、同年末に再び参議を辞任することとなる。漸次立憲政体樹立の詔は、立憲国家への道筋を公に約束した画期的な一歩であったものの、その実態は藩閥統治を維持しつつ民権派の不満を和らげるための、二面性を持った改革であった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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