後白河法皇

平治の乱ののち院政を行い、源平の争乱期に源頼朝らを巧みに操って権力を握り続けた第77代天皇(法皇)は誰か?
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★★★

後白河法皇

1127年〜1192年

【概説】
保元の乱に勝利して長期にわたり院政を敷き、平安時代末期から鎌倉時代初期の激動期において政治的実権を握った第77代天皇・治天の君。平氏政権との対立と妥協を繰り返し、後には源頼朝に平氏追討の院宣を下すなど、巧みな権謀術数で武士が台頭する過渡期を生き抜いた。

予期せぬ即位と保元の乱

後白河法皇(諱は雅仁)は、鳥羽天皇の第四皇子として生まれた。元来は皇位継承の望みは薄く、今様(当時の流行歌)に熱中する日々を送っていたため、父の鳥羽法皇からは「即位の器量ではない」と評されていたとされる。しかし、異母弟の近衛天皇が早世すると、兄の崇徳上皇の皇子である重仁親王を退け、息子の守仁親王(のちの二条天皇)が成人するまでの中継ぎとして、1155年に突如として皇位に就くこととなった。

翌1156年に鳥羽法皇が崩御すると、皇室内部の対立は摂関家の内紛や源平の武士団を巻き込む保元の乱へと発展した。後白河天皇は源義朝や平清盛らを味方につけて崇徳上皇方を打ち破り、自らの政治的基盤を固めることに成功した。

平氏政権との相克と幽閉

1158年、後白河天皇は二条天皇に譲位して院政を開始し、1169年には出家して法皇となった。この過程で起きた平治の乱(1159年)を経て平清盛が台頭すると、法皇は当初、清盛と結びついて政権の安定を図り、日宋貿易を推進する清盛の政策にも理解を示した。しかし、平氏一門が朝廷の要職を独占し、圧倒的な権勢を誇るようになると、両者の関係は次第に悪化していく。

1177年の鹿ケ谷の陰謀で平氏打倒の密議が発覚し、法皇の近臣らが多数処罰される事件が起きた。さらに1179年の治承三年の政変において、清盛は軍勢を率いて上洛し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して院政を停止させるという強硬手段に出た。これにより、法皇と平清盛の対立は修復不可能な決定的なものとなった。

「日本一の大天狗」と源平争乱

法皇幽閉の翌年、法皇の第三皇子である以仁王が平氏打倒の令旨を発したことを契機に、全国各地で源氏が挙兵し、治承・寿永の乱(源平合戦)が勃発する。1181年に清盛が病死し、源義仲(木曽義仲)が京都に迫ると、平氏は都落ちを余儀なくされた。幽閉を解かれ院政を再開した法皇は、ここから源氏の武将たちを巧みに操り始める。

義仲が京都で乱暴狼藉を働くと、法皇は鎌倉の源頼朝に接近して義仲追討を命じ、続いて源義経らを結びつけて平氏を滅亡(1185年)へと追いやった。その後は頼朝の権力拡大を警戒し、義経に頼朝追討の院宣を下して源氏内部の離間を図るなど、朝廷の権威を維持するために武家を翻弄し続けた。こうした法皇の老獪な政治手腕を、頼朝は「日本第一の大天狗」と呼んで強く警戒したと伝えられている。

鎌倉幕府の成立と文化的功績

義経没落後、頼朝の軍事的圧力に屈した法皇は、1185年に諸国への守護・地頭の設置を認める文治の勅許を下し、これが鎌倉幕府成立の法的な基盤となった。頼朝は法皇が存命の間は征夷大将軍の任官を辞退しており、1192年に法皇が66歳で崩御して初めて将軍に就任していることからも、法皇の政治的影響力がいかに巨大であったかが窺える。二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の5代の天皇の御代にわたって治天の君として君臨した法皇は、古代から中世への過渡期において朝廷の権威を死守し続けた。

また、政治的な暗闘を繰り広げただけでなく、文化面でも大きな足跡を残している。若き日からの趣味であった今様への熱情は生涯衰えず、身分を問わず市井の遊女や傀儡子(くぐつ)からも教えを受け、当時の流行歌を集成した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編纂した。これは当時の庶民の息吹や豊かな精神文化を今に伝える、日本文化史における極めて重要な業績と評価されている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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Q. 韓国に設置された統監府の最高責任者の役職名で、初代には伊藤博文が就任したものは何か?
Q. 1185年に守護・地頭の設置を認められ、1192年に征夷大将軍となって鎌倉に武家政権を開いた人物は誰か?