皇太子
【概説】
次の天皇に即位することが公式に定められている皇子のこと。中国の五行思想に由来して「東宮」や「春宮」とも呼ばれ、皇位継承の安定化を目的として古代の律令制において制度化された。
皇太子の起源と律令制における位置づけ
日本における「皇太子」の制度は、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて形成された。それ以前の倭国(大和政権)においては、特定の皇位継承者をあらかじめ固定する制度はなく、複数の有力な皇子(大兄など)の中から、実力や貴族たちの合意によって次期大王が選出されていた。しかし、この方法はしばしば壬申の乱に代表されるような深刻な皇位継承争い(内乱)を招く原因となった。
天武天皇から持統天皇の治世にかけて、王権の強化と継承の安定化を図るために後継者を事前決定する仕組みが模索され、草壁皇子や軽皇子(後の文武天皇)が皇太子に立てられた。そして701年に制定された大宝律令(および養老律令)により、皇太子は天皇の直接の後継者(継嗣)として制度的に明確に規定され、皇位継承のルールが明文化されることとなった。
平安時代における皇太子と摂関政治
平安時代に入ると、皇太子の地位は天皇家のみならず、朝廷の権力闘争の中核に位置づけられるようになった。特に藤原北家による摂関政治の全盛期において、皇太子(東宮)の決定は藤原氏の権力維持・拡大に直結する死活問題であった。
藤原氏は、自らの娘を天皇の后(中宮や女御)として入内させ、誕生した皇子を速やかに皇太子に立てることを目指した。これによって、東宮が即位した際に天皇の外祖父(母方の祖父)となり、摂政や関白として実権を握ることが可能となったからである。この時代、皇太子の身辺を世話する「春宮坊(とうぐうぼう)」や、東宮の教育を担当する「東宮学士(とうぐうがくし)」などの官職には、将来の権力奪取を狙う藤原氏一門やその息のかかった貴族・学者が配され、密接な関係が築かれた。この東宮をめぐる擁立競争は、時に安和の変などの排斥事件を引き起こす契機ともなった。