大阪会議
【概説】
1875年(明治8年)、大久保利通が下野していた木戸孝允および板垣退助と大阪で会談し、両名の政府復帰と漸次的な立憲政体の樹立を合意した政治会議。この会議の結果として「立憲政体の詔書」が発布され、元老院や大審院などが設置された。
明治政府の分裂と大久保政権の孤立
1873年(明治6年)の明治六年の政変(征韓論争)において、西郷隆盛や板垣退助、江藤新平らが政府を去り、翌1874年には板垣らが「民撰議院設立建白書」を提出して自由民権運動の口火を切った。さらに同年、政府が決定した台湾出兵に強硬に反対した木戸孝允も抗議して参議を辞任し、明治政府の指導層は大きく分裂することとなった。
この結果、政府の実権は内務卿の大久保利通に集中し、少数の官僚が国政を動かす「有司専制(ゆうしせんせい)」の体制が確立した。しかし、不平士族の反乱(佐賀の乱など)や民権運動の激化に直面した大久保は、政府の権力基盤が著しく弱体化していることに強い危機感を抱いていた。
井上馨・伊藤博文の斡旋と合意
大久保政権の孤立を解消し、薩長土の有力指導者による体制を再構築するため、井上馨と伊藤博文が奔走した。彼らの斡旋により、1875年(明治8年)1月から2月にかけて、大阪において大久保、木戸、板垣による会談が実現した。これが大阪会議である。
会議では、木戸と板垣が参議として政府に復帰することが話し合われた。木戸と板垣は復帰の条件として、専制的な政府の体制を改め、議会政治の導入に向けた政体改革を行うことを要求した。大久保も政権の安定化のためにはやむを得ないと判断し、この要求を妥協として受け入れた。
立憲政体の詔書と三権分立機構の創設
大阪会議での合意に基づき、同年4月14日に天皇の名で立憲政体の詔書(漸次立憲政体樹立の詔)が発布された。これにより、日本が将来的に立憲国家を目指し、漸次的に国会を開設することが公式に宣言されたのである。
具体的な改革として、従来の左院と右院を廃止し、新たな立法諮問機関として元老院、最高司法機関として大審院が設置された。また、地方長官を集めて民意を反映させるための地方官会議の開催も決定し、三権分立を模した外形的な近代国家機構の整備が進められた。
大阪会議の歴史的意義とその後の破綻
大阪会議は、武力討幕の中心となった薩長土の元勲が再び結集し、明治政府が絶対主義的な専制から立憲君主制への移行を約束したという点で、日本近代政治史における重要な転換点となった。
しかし、この合意に基づく新体制は長くは続かなかった。権力の中心は依然として大久保利通が握っており、元老院への権限付与や民撰議院の早期設立を求める板垣退助と、時期尚早とする大久保らとの間ですぐに対立が表面化した。同年秋には板垣が再び下野して民権運動の指導に戻り、政府側はこれを抑え込むために讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞紙条例を制定して言論弾圧を強化した。結果として大阪会議による連立体制は短期間で崩壊したものの、立憲国家の樹立という目標は国家の既定路線として定着していくこととなった。