大冶(大冶鉄山) (だやてつざん)
【概説】
中国湖北省に位置した、極めて豊富な埋蔵量を誇る巨大な鉄山。1901年に操業を開始した官営八幡製鉄所に対し、主原料となる鉄鉱石を供給し続けたことで知られる。近代日本の重工業化および軍事力強化を根底から支えた、東アジア最大級の鉱山資源地帯。
官営八幡製鉄所の創設と原料確保の課題
日清戦争の勝利を経て、日本政府は軍備拡張と産業の自立を目指し、国家プロジェクトとして官営八幡製鉄所の建設に着手した。1901年に操業を開始した同製鉄所であったが、最大の課題は製鉄に不可欠な鉄鉱石の確保であった。日本国内の主要な鉄山(釜石鉱山など)だけでは、急増する軍需や産業界の需要を賄うための大規模生産に到底耐えられなかったためである。
そこで白羽の矢が立ったのが、清国の湖北省大冶県(現・黄石市)に位置する大冶鉄山であった。同鉄山は清末の洋務運動推進派である官僚・張之洞によって開発が進められており、鉄含有量が60%を超える極めて高品質な鉄鉱石を大量に抱えていた。日本は1899年に清国側と鉱石購入契約を結び、八幡製鉄所はここから安価で上質な鉄鉱石を輸入することで、ようやく本格的な操業軌道に乗せることが可能となった。
漢冶萍公司への資本進出と「資源支配」への傾斜
大冶鉄山は、萍郷(ほうきょう)炭鉱、漢陽(かんよう)鉄廠とともに、1908年に中国初の近代的な製鉄コンツェルンである漢冶萍公司(かんやへいこうし)として統合された。しかし、同公司は近代化資金の不足や清朝末期の混乱から、慢性的な経営難に苦しんでいた。
日本側はこの資金難を好機と捉えた。横浜正金銀行などの借款(融資)を通じて同公司への財政的影響力を強め、事実上の担保として大冶鉄山からの鉄鉱石の長期・優先的な引き渡し契約(引き当て)を次々と結んでいった。これにより、日本の八幡製鉄所は、大冶鉄山の鉱石を安定的かつ排他的に確保する構造を作り上げたのである。これは、日本の資本主義発達が自国の資源ではなく、アジア近隣諸国に対する帝国的・半植民地的な資源獲得によって成り立っていたことを如実に示す事例である。
二十一カ条要求と軍事大国化への道
第一次世界大戦が勃発すると、日本は中国における利権を確定・拡大すべく、1915年に中華民国(袁世凱政権)に対して対華二十一カ条要求を突きつけた。その第3号には、漢冶萍公司を日中合弁の企業とすること、および同公司の所有する鉱山(大冶鉄山など)に関わる権利を日本に無断で他国に譲渡・貸与しないことが明記された。
この要求の背景には、大冶鉄山を名実ともに日本の軍事産業の直接的なコントロール下に置き、さらなる鉄鋼増産体制を築く意図があった。その後、昭和期の日中戦争から太平洋戦争へと至る戦時下においても、大冶鉄山は日本軍による直接的な占領・掠奪の対象となり、終戦まで日本の重工業と戦争遂行を支える供給源として機能し続けた。