日本製鋼所 (にほんせいこうしょ)
【概説】
1907(明治40)年、三井財閥とイギリスの兵器メーカー(アームストロング社、ヴィッカース社)の共同出資によって北海道室蘭に設立された、我が国初の本格的な民間軍需企業。
日露戦争後の軍備国産化と「政財官」の思惑
日露戦争(1904〜05年)において日本海軍は勝利を収めたものの、主力艦や大口径の艦砲、装甲板といった主要な兵器の大部分はイギリスをはじめとする外国からの輸入に依存していた。戦後、海軍は「兵器の国産化」を急務としたが、当時の国家財政や官営の工廠(呉海軍工廠など)の技術水準・生産能力だけではこれを賄いきれなかった。
こうした海軍の強い要請を受け、国内最大の総合商社であった三井物産(三井財閥)が動き、イギリスの二大兵器メーカーであるアームストロング・ホイットワース社およびヴィッカース社との間で合弁の交渉が進められた。その結果、1907年に誕生したのが日本製鋼所である。これは、明治期における先進国からの「外資導入」および「最先端軍事技術の移転」を象徴する、最大規模の合同事業であった。
室蘭の選定と北海道における重工業化
日本製鋼所の建設地として北海道の室蘭が選ばれたのには、明確な立地・経済上の理由があった。当時、室蘭は天然の良港を持ち、船舶による原材料の搬入や大型兵器の海上輸送に極めて有利であった。さらに、夕張炭鉱をはじめとする石狩炭田の石炭資源を利用しやすく、噴火湾周辺で産出される砂鉄や鉄鉱石といった製鉄資源へのアクセスも容易であった。
この立地を活かして設立された日本製鋼所は、同時期に同じく室蘭に設立された北海道炭礦汽船輪西製鐵場(後の日本製鉄室蘭製鉄所)とともに、北海道の工業化を牽引する存在となった。これにより室蘭は「鉄のまち」としての基礎を確立し、日本の近代重工業の主要な一翼を担うこととなった。
軍縮の荒波と軍需から民需への適応
操業開始後の日本製鋼所は、戦艦「金剛」などの弩級戦艦の主砲や装甲板を製造し、大正期の第一次世界大戦では軍需景気の恩恵を受けて急成長を遂げた。しかし、1922(大正11)年に結ばれたワシントン海軍軍縮条約によって主力艦の建造が厳しく制限されると、受注が激減して深刻な経営危機(軍縮不況)に直面した。
この危機を乗り越えるため、同社は培った高度な鋳鍛造技術を活かし、発電用のローターシャフトや民間産業用の機械、化学プラント向け機器など、民需製品の製造へと転換を図った。その後、昭和の満洲事変以後は再び軍国主義の台頭とともに軍需生産の主力へと復帰したが、この軍縮期における民需転換への模索が、戦後の平和産業としての再出発、および高度経済成長期における技術的基盤へとつながることになった。