操業短縮(操短) (そうぎょうたんしゅく(そうたん)
【概説】
不況や恐慌の際、過剰生産による商品価格の暴落を防ぐために、同業の企業が協定(カルテル)を結んで自主的に生産量や工場の稼働時間を制限する措置。明治中期の1890年恐慌において、大日本紡績連合会が日本で初めて実施した。
1890年恐慌と日本初の操業短縮
1880年代の松方財政(デフレ政策)を経て、日本は近代的な産業革命の勃興期を迎えた。特に民間資本による機械紡績業は、大阪紡績会社の成功を契機に急成長を遂げ、綿糸の生産量は飛躍的に増大した。しかし、1890(明治23)年に日本最初の近代的な経済恐慌である1890年恐慌が発生すると、国内市場の狭さと国民の購買力の低さから、生産された綿糸が売れ残り、市場価格が暴落する事態となった。
この危機に対し、渋沢栄一らが中心となって結成された同業者組織大日本紡績連合会(紡連)は、加盟各社に対して一斉に生産量を減らす協定を結んだ。これが日本における本格的な操業短縮(操短)の始まりである。この措置は、供給過剰を強制的に緩和して市場価格を維持し、企業の共倒れを防ぐというカルテル(企業連合)としての大きな効果を発揮した。
資本主義の独占化と労働者への影響
操業短縮は、企業が個別の自由競争を一時的に放棄し、共同して市場を管理する独占資本主義的な行動の現れであった。1890年の成功以降、紡績業界は日清戦争後の不況(1897〜98年)や、日露戦争後の1907(明治40)年の恐慌、さらには大正期の1920(大正9)年戦後恐慌や昭和恐慌に至るまで、不況期が訪れるたびに操短を繰り返して危機を乗り切ろうとした。
しかし、この措置は資本家にとっては損失を抑える有効な手段であったが、その代償は労働者へと転嫁された。工場の稼働時間短縮や休業は、日給制や出来高制で働く多くの労働者、特に当時の紡績工場を支えていた若い女性労働者(女工)たちの直接的な賃金削減や解雇(首切り)を意味していた。このように、操業短縮の歴史は、日本の産業資本・独占資本の発展過程を示すと同時に、近代日本における過酷な労働環境や労働問題の発生とも深く結びついている。