弥生時代
【概説】
本格的な水稲耕作と金属器(青銅器・鉄器)の使用を特徴とする、紀元前4世紀頃から紀元3世紀頃にかけての日本列島の時代区分。
狩猟・採集を中心とした縄文時代から農耕を基盤とする生産経済へと転換し、貧富の差や身分階級の発生、そして「クニ」と呼ばれる政治的まとまりが形成された、歴史的に極めて重要な転換期である。
獲得経済から生産経済への大転換
縄文時代の狩猟・採集・漁労を中心とした獲得経済から、水稲農耕を主軸とする生産経済への移行は、日本列島の歴史における最も重大な画期の一つである。大陸から朝鮮半島を経由して九州北部に伝来した水稲耕作は、瞬く間に西日本から東日本へと波及した。初期の低湿地を利用した湿田から、やがて灌漑施設を伴う生産性の高い乾田へと開発が進み、木製農具や、穂首刈りを行うための石包丁などが広く用いられた。収穫された米はネズミや湿気を防ぐために高床倉庫に保管されるようになり、定住化が進むとともに人々の生活基盤は飛躍的に安定した。
金属器の同時伝来とテクノロジーの革新
水稲農耕とほぼ同時期に、青銅器と鉄器という二つの金属器が大陸からもたらされた。世界史的には青銅器時代を経て鉄器時代へと段階的に移行するのが一般的であるが、日本列島ではこれらが同時に伝来した点が大きな特徴である。実用性に優れる鉄器は、農具の刃先や工具、あるいは武器としていち早く普及し、開墾や木材加工の効率を劇的に向上させた。一方、青銅器は次第に大型化・装飾化の道をたどり、銅鐸、銅剣、銅矛など、農耕祭祀の道具や、集落の権威の象徴としての祭器へと独自の変容を遂げていった。
階級の発生と「クニ」の形成
農耕社会の成立は、余剰生産物(富)の蓄積を可能にしたが、同時にそれは持てる者と持たざる者という貧富の差を生み出した。また、農耕に不可欠な水利権や優良な土地をめぐる集落間の武力衝突が頻発するようになった。これに伴い、防御のために周囲に深い濠を巡らせた環濠集落や、山頂や丘陵上に営まれた軍事的な高地性集落が出現した。こうした抗争と統合の過程で、集落を統率する強力な指導者(首長)が現れて身分階級が成立し、やがて複数の集落を束ねた政治的なまとまりである「クニ(小国)」が各地に形成されていくこととなる。
東アジア世界との交流と中国史書の中の「倭」
弥生時代の日本列島は自前の文字を持たない社会であったが、同時代の中国の史書に「倭」として記録されたことで、初めて文字による歴史の表舞台に登場した。紀元前1世紀の状況を記した『漢書』地理志には、倭人が百余りの小国に分かれて定期的に漢の楽浪郡へ使者を送っていたことが記されている。
さらに1世紀の『後漢書』東夷伝には、建武中元2年(57年)に奴国の王が後漢の光武帝から「漢委奴国王」の金印を授与されたとあり、列島の首長たちが中国王朝の権威を利用して、国内の政治的優位を確立しようとしていた(冊封体制への参加)ことが窺える。そして3世紀の『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)には、およそ30の小国を統属させた邪馬台国の女王・卑弥呼の存在が克明に描かれており、初期の国家形成に向けた歩みが着実に進んでいたことを示している。
名称の由来と最新研究による年代観の見直し
「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京都文京区向ヶ岡弥生町(現在の弥生)の貝塚で、縄文土器とは異なる特徴を持つ、薄手で硬く焼かれた赤褐色の土器(弥生土器)が発見されたことに由来する。
なお、弥生時代の開始時期については、長らく紀元前4世紀頃(または前3世紀頃)とされてきた。しかし近年、国立歴史民俗博物館による土器に付着した炭化物の放射性炭素年代測定(AMS法)などの最新研究により、早期の開始年代を紀元前10世紀頃まで大きく遡らせる説が提唱され、学界の主流となりつつある。この年代観の見直しは、弥生時代が従来考えられていたよりもはるかに長い期間にわたり、緩やかに社会構造を変化させていった時代であることを示唆している。またこの時期、北海道地方は農耕を受容せず続縄文時代へ、南西諸島は貝塚時代へと移行しており、日本列島内における文化や生活様式の地域差が明確になった時代でもある。