久米邦武

『米欧回覧実記』の編纂者であり、のちに神道を歴史的・客観的に分析した論文を発表したため、東京帝国大学の教授職を追放された歴史学者は誰か?
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重要度
★★

久米邦武 (くめくにたけ)

1839年〜1931年

【概説】
幕末から昭和初期にかけて活躍した歴史学者。岩倉使節団の随行書記官として欧米諸国を巡察し、その克明な記録を『米欧回覧実記』として編纂した。のちに帝国大学教授に就任して近代的な実証主義歴史学の確立に努めたが、執筆した学術論文が政治問題化し、大学を追われる筆禍事件を引き起こしたことで知られる。

岩倉使節団への随行と『米欧回覧実記』の編纂

久米邦武は天保10(1839)年、肥前国佐賀藩士の家に生まれた。藩校の弘道館で漢学などを学び、藩主・鍋島直正の側近として頭角を現した。明治維新後は新政府に出仕し、明治4(1871)年に派遣された岩倉使節団に特命全権大使・岩倉具視の随行書記官として同行する機会を得た。

約2年間に及ぶ欧米諸国の視察において、久米は卓越した観察眼と情報収集能力を発揮し、各国の政治、経済、産業、教育、宗教などを緻密に記録した。帰国後の明治11(1878)年、これらの記録を『特命全権大使米欧回覧実記』(全5編100巻)として刊行。この書物は単なる旅行記にとどまらず、西洋近代文明の神髄と当時の国際情勢を鋭く分析した超一級の史料であり、明治政府が推進する近代化(富国強兵・殖産興業)の重要な指針となった。

実証主義歴史学の追究と「神道は祭天の古俗」

使節団から帰国後、久米は太政官修史館などを経て、明治21(1888)年に東京帝国大学(現・東京大学)教授および臨時編年史編纂委員に就任した。ここで彼は、重野安繹らとともに、従来の主観的・道徳的な儒教的歴史観や国学的な歴史観を排し、確かな史料の批判的検討に基づく近代的な実証主義歴史学の基礎を確立しようとした。

しかし、明治24(1891)年、久米が学術雑誌『史学雑誌』などに発表(転載)した論文「神道は祭天の古俗」が、彼の運命を大きく揺るがすこととなる。この論文において久米は、神道は日本固有の宗教ではなく、古代アジア諸国に共通して見られる「天(自然)を祀る古い習俗」が残存したものであると、比較宗教学的・歴史学的な視点から実証的に論じた。この客観的な学説が、当時の国家体制構築の動きと激しく衝突することになる。

「久米邦武筆禍事件」とその歴史的影響

当時の明治政府は、大日本帝国憲法の発布(1889年)や教育勅語の渙発(1890年)を通じて、天皇を中心とする中央集権的な国家体制を強化し、天皇の神格化や国家神道の整備を進めようとしていた。こうした時期に発表された久米の論文は、皇室の祖先神話を相対化し、その絶対性を揺るがすものとみなされたため、国学者や神道家、保守派の知識人たちから「皇室の尊厳を汚す不敬の説」として激しい攻撃を浴びることとなった。

世論の糾弾や政府からの圧力を受け、明治25(1892)年、久米は東京帝国大学教授を辞職に追い込まれ、論文は発禁処分となった。この一連の騒動は「久米邦武筆禍事件」と呼ばれ、近代日本のアカデミズムにおける最初の言論・学問の自由の弾圧事件として歴史に刻まれている。大学を去った久米は、のちに大隈重信の招きに応じて東京専門学校(現・早稲田大学)教授となり、野にあって日本古代史や古文書学の研究・教育に尽力し、実証史学の発展に貢献し続けた。

特命全権大使 米欧回覧実記1 (岩波文庫 青141-1)

明治初期の日本人が異国の地で見聞した驚きと知見を、精緻な記述で克明に記録した歴史的価値の極めて高い大著。

「久米邦武」の思想 ――幕末の佐賀藩士・歴史学の創始者、欧米との比較で日本人の宗教観を明らかにした久米邦武の研究

近代歴史学を切り拓いた久米邦武の思想的輪郭を、幕末の原体験や欧米との比較を通じ浮き彫りにした貴重な研究書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 敗戦後のドイツや朝鮮半島において行われた、複数の戦勝国が地域を分けて占領統治する方式を何というか?
Q. 森鷗外が自身のドイツ留学の体験をもとに、青年・豊太郎と踊り子エリスの悲恋を描いた小説は何か?
Q. 岩倉使節団の出発後に外務卿となり、アメリカとの間で税権(関税自主権)回復を目標に条約改正交渉を行った人物は誰か?