寺島宗則 (てらしまむねのり)
【概説】
幕末から明治時代にかけて活躍した薩摩藩出身の外交官、政治家。岩倉使節団の派遣に伴う留守政府において外交実務を主導し、のちに外務卿として関税自主権の回復(税権回復)を目指した条約改正交渉を本格的に推進した人物である。
国際経験豊かな「電気の父」から近代外交の担い手へ
寺島宗則は、薩摩藩医の家に生まれ、当初は松木弘安の名で活動した。蘭学や英学を修め、1862年の薩摩藩遣英使節への随行や、薩英戦争での捕虜経験などを通じて、いち早く西洋の進んだ科学技術と国際情勢を肌で感じた。また、日本初の電信線の架設や電信制度の整備に尽力したことから「日本の電気通信の父」とも称される。
明治維新後は外交官としての道を歩み、1871年に岩倉具視を特命全権大使とする岩倉使節団が欧米へ派遣された際には、外務大輔(外務次官に相当)として日本に残り、留守政府の外交実務を事実上一手に引き受けた。この時期、横浜港に寄港したペルー船籍の奴隷貿易船を巡るマリア・ルス号事件の裁判処理において、人道主義の観点から清国人苦力を解放するなど、国際法に準拠した主体的かつ近代的な外交手腕を発揮し、国際社会に日本の司法権の正当性をアピールした。
「税権回復」に焦点を当てた条約改正交渉とその挫折
1873年に帰国した岩倉具視らのもとで政変(明治六年の政変)が起きると、寺島は副島種臣の後を継いで外務卿に就任した。彼の最大の使命は、幕末に江戸幕府が結んだ不平等条約の改正であった。当時の日本は、領事裁判権(法権)の撤廃と関税自主権(税権)の回復という2つの課題を抱えていたが、寺島は欧米の法制度との格差を考慮し、まずは国家財政の安定と国内産業の保護に直結する税権の回復に固定して交渉を進める方針を採った。
この方針のもと、1878年にアメリカ公使ビンガムとの間で、日本の関税自主権を認める「吉田・エヴァーツ条約」の調印に成功した。これは条約改正への大きな一歩となる画期的な成果であった。しかし、同条約には「他国が同様の改正に同意しなければ発効しない」という条件(同盟罷免条項)が付されていた。日本との貿易で最大の利益を得ていたイギリス(駐日公使パークス)やドイツがこの改正に猛烈に反対したため、最終的に条約は発効に至らず、寺島の条約改正交渉は挫折を余儀なくされた。
条約改正史における歴史的意義
アメリカとの合意を取り付けながらも欧州列強の壁に阻まれた寺島は、1879年に外務卿を辞任した。彼の外交路線は、次代の外務卿(のちの外務大臣)である井上馨へと引き継がれるが、井上は寺島の「税権先取」から「法権・税権の同時改正(鹿鳴館外交)」へと方針を大きく転換することになる。
結果として条約改正を成し遂げることはできなかったものの、寺島宗則が展開した交渉は、のちの小村寿太郎による関税自主権の完全回復(1911年)に至る道筋において、日本の外交的立場を明確にし、列強との交渉術を蓄積する上で極めて重要な足跡を残したといえる。